tokyokidの書評・論評・日記

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コラム・わたしのアメリカ観察 5

tokyokid2011-11-01

★ジャックとベティ
 生れて初めて英語の話をしたのは、戦時中のもう群馬県に近い埼玉の田舎道でのことだった。当時疎開で住んでいた祖父の家から歩いて2キロほどある村の中心部にあった信用組合に、小学校三年生であった私と母が珍しく二人だけで歩いて用事を足しにいったときのことだ。ほかの話から英語の話になり、私は母に「では行くというのは英語でなんというの?」と尋ねた。母は即座に「ゴーイングというのよ」と答えた。当時日本の本土は、米軍機による空襲が日増しに激しくなってきた時期で、子供でも空襲にやってくる「ボーイング・B29」というのは知っていたから、私は「行くというのと、敵の爆撃機の名前は似ているなあ」と思った。
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 小学校(当時は国民学校)四年生のとき敗戦となり、疎開先の東京の家に戻って中学校に入ると、英語の授業が始まった。「アイ・アム・トム・ブラウン」で始まる中学校の教科書の内容は、当時の経済的にも精神的にも荒廃していた日本の世情からは、ずっと離れた星の世界の話に思えた。なぜなら三食も満足に食べられない日本人が私の家族を含めていくらでも居たし、街頭ではアメリカ兵の靴を磨く戦災孤児が見られるこのころの時代では少しも珍しいことではなかったのに、教科書の中では、ジャックとベティというふたりがおやつを食べたり隣の家に遊びにいったり、父親の車に乗せてもらって友だちのパーティに招かれたりしていたからだ。いまではなんでもないこれらのことは、当時の日本人にとっては夢のまた夢のことであった。でも中流家庭をモデルにしたらしいこれらの教科書のなかのアメリカの家庭生活と、街で見るパンパンと呼ばれた夜の女を腕にぶら下げて銀座や新橋の盛り場を我物顔にジープを乗り回す米兵とは、どうしても頭の中で結び付かず、私にとってはこの夢の星と目の前の現実の世界は、それぞれまったく別の世界なのであった。
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 中学から高校三年生になるまで、私には特に英語の思い出はない。ただ高校進学の全国テストはアチーブメント・テストと呼ばれ、八課目の試験科目に英語は入っていなかったから、数学の苦手な私は、数学の代りに英語が入っていたらいいなと思った。当時の中学校では、英語、国語、数学の三課目については週五時間の授業が行われていた。ところが高校生になって地方の中学を卒業してきた級友に聞いたら、彼は中学校で英語は全く習っていない、ということだった。当時の文部省はこの事実を知っていて、故意に英語をテストの課目から外したのだろう。
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 高校三年の夏休み、つてがあって当時の進駐軍(米軍)将校とその家族の宿舎だった渋谷のワシントン・ハイツで三個月間住み込みのアルバイトをした。数ある米軍住宅用団地のなかでも、ここは将校とその家族用だけに、家並みの向こうに明治神宮の森が見える、広い芝生に白い家が点在する夢のような住宅地であった。いまの渋谷のオリンピック体育館からNHKを経て、さらに青少年センターを過ぎて参宮橋駅に至る広い住宅地であった。住み込んだO大佐宅は、大佐と奥さん、男の子ふたりと女の子ひとりの五人家族であった。六月下旬から夏休みを早目にとり、九月初旬にその家族が横浜から軍用船で本国に帰国するまでのあいだ、子供の世話、家の掃除、洗車、芝刈りなどの、ひとり居た女のメイドでは力の及ばない仕事をハウスボーイの私がやったわけだ。住み込んだその日の夕方、通いのメイドが帰ったあとで奥さんの料理の手伝いをしていたが、アメリカ人の奥さんだから当然の英語で「そこの塩をとってちょうだい」と言われた。「塩」も「取る」も英語の単語としては知っていたはずだったが、たったこれだけのことが聞き取れなかったことに大変ショックを受けた。でもこの三個月間に英語しか喋らない子供たちの世話をしたお陰で、教科書には絶対に出てくることのない悪口や怒号を含む「悪い」英語も含めて覚えることができた。また自我の強いアメリカ人とどう渡り合うか、今様にいえばどうコミュニケーションを取るか、身をもって体験することができた。当時の日本人としては、非常に稀少な経験をまだ若かった高校三年生のときにしたわけである。これは異国人と折衝するとき、単なる論理や相手の個人的な資質のみならず、精神文化の差異も視界に入れて交渉するほうが、言語としての英語だけに頼って相手とのやりとりをするよりはずっと効率がよいことを知る機会でもあった。三個月が経つと、相手が大人であれ子供であれ、ひととおりの日常会話を聴きとり、こちらの意思表示も英語でできるようになっていたように思う。
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 結局ワシントン・ハイツで働いたのは足かけ六年間ほどであった。この期間は、第二次世界大戦に勝ったアメリカの輝ける期間でもあった。コカコーラ、巨大なフィン(尾ひれ)のついた大型乗用車、アール・デコ調の曲線を多用した台所用品、文房具、自転車などの工業製品、また当時は写真が盛んになってきたときであった。出版物ではライフ、タイム、ポスト、ページェント、リーダースダイジェストなどの雑誌が隆盛を誇っていた。当時の朝日新聞に連載されていたチック・ヤングの漫画「ブロンディ」に出てくるダグウッドが作る、左手を前に出して手の先から肩まで届く長さの名物「ダグウッド・サンドイッチ」がよだれの出るほどのご馳走に見えた。ハムやソーセージやチーズなど、普通の日本人家庭には縁のない時代で、米軍の日常生活の一環であった握るところが細いビンでお馴染みのコカコーラや、熱湯を注ぐだけで飲める粉のインスタント・コーヒーなどが、ヤミ市場の横流しルートにより日本人の口に入るようになるまでは、まだ幾許かの時間を必要とした時代であった。
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 当時映画では西部劇が全盛で、音楽ではアメリカ発祥のジャズが多くの日本人にも視聴されていた。いや、これらのアメリカ文化がなければ、当時の日本は夜も日も明けなかった時代、といったほうがいいだろう。だから戦時中は軍部の命令で野球のストライク・ボールを「よし」「だめ」と言わされていた反動もあって、戦後は一挙に英語が身辺に氾濫しはじめ、現在に至る。つまり当時英語に接するのはなんの苦労もない時代に変ってきていたから、私などはまるで砂漠が水を吸い込むように、無秩序に英語やアメリカ文化を吸収していった。□

*写真は当時使われていた中学校一年生用英語教科書「ジャックとベティ」の表紙(復刊本)