tokyokidの書評・論評・日記

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コラム・わたしのアメリカ観察 3

tokyokid2011-10-16

アメリカ人との接触

 昭和20年(1945)に日本の敗戦で第二次世界大戦が終った。このあと「連合軍」が日本に進駐してきたが、主力は米軍であった。疲弊した東京の街はたちまち米兵とジープで溢れ返った。日本の国としても、アメリカという国にこれほど全面的にかかわったのは有史以来のことであった。
 個人的に言っても、個々のアメリカ人と接触した経験は戦後のことである。当時のアメリカ人の印象といえば、戦勝国だというのに敗戦国民の日本人に対してちっとも「威張る」ことをしない人たちだな、ということであった。これは戦前・戦中を通して、民間人を見下ろして威張りくさる日本の軍人(とくに陸軍)を子供心に見ていたからであったから、余計に比較しやすかったのかも知れない。ともかく当時のアメリカ人は日本人市民に対して一般に寛容であった。
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その後長ずるに及んで、具体的には高校三年生の夏休みのことであったが、当時のアメリカ軍の将校家族がまとまって住んでいる渋谷のワシントン・ハイツにハウスボーイとして働きに出る機会に恵まれた。ここに居住するのは米軍軍人でも「将校」ばかり、つまり尉官・佐官・将官の人たちばかりであって、しかも家族帯同であったから、いわゆる知識階級に属する人たちが多かったのであろう。まして当時の東京は焼け野原で住人といえば粗末な服を着て毎日食べるものにも事欠く日本人が少なくなかったのだから、ワシントン・ハイツ住人のアメリカ人から見れば、当時一般の日本人は「憐れむべき」存在であったのだろうし、勝者の寛容を示すのもごく当然だったのかも知れない。
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 昭和28年(1953)のその頃、高卒の初任給は五、六千円であったと記憶する。それが高校三年生にとってもワシントン・ハイツのハウスボーイのアルバイトでは、一日なんと五百円もらえた。当時は固定為替レートの時代で1ドル三百六十円の時代であったから、アメリカ人にとっては2ドル足らずでハウスボーイを一日(八時間)雇えるわけで大した出費ではなかったが、働く日本人の受取り側にしてみれば、新規社会人の月給の3倍もの収入になった。しかも働き先の米人家庭では「冷蔵庫のなかのものは、好きなものを好きなだけ食べてもいい」と使用人に対しては至極寛容であった。食料が払底していた当時の日本にあって、これはまさに「極楽の沙汰」であった。
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 周知のようにアメリカ人同士では、親しみを込めて最初からその人のファースト・ネームで呼び合う。「ジョージ」とか「メアリー」とかのたぐいで、年齢もお構いなしである。一方英国人は年齢や社会的地位によって呼び方が違う。年少者が年長者を呼ぶときには「ミスター・何々」ときちんと姓で呼ぶ。よほど親しくなって、しかも社会的地位が同じくらいでないとファースト・ネームで呼び合うことはなかった。親しみと寛容、これが最初のアメリカ人と接触したときの印象であったが、その後仕事で欧州にも知己ができ、住んでみる経験も積むと、だいぶ印象が異なってきた。つまりアメリカ人は最初から親しそうに振舞うが、本当にそうなのか、疑問が湧いてきた。むしろ表面的な現象ではないかと判断するようになった。□
*写真は1953(昭和28)年当時のワシントン・ハイツ。いまの渋谷のNHKはその跡地を一部利用している。