tokyokidの書評・論評・日記

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日記151011・US Cars 40&50, 1946 Models

tokyokid2015-10-11

くるま151011・US Cars 40&50, 1949 Models
 1949年といえば昭和24年。敗戦は昭和20(1945)年だったから、この年はまだ講和条約も結ばれておらず、日本は米国を始めとする連合軍の占領下にあった。戦後焼け残った陶器の製作窯などを使って「Made in Occupied Japan」と屈辱的な生産国名を入れさせられた食器や装飾品の陶器が細々と輸出されていた頃である。毎日新聞社が出した「昭和史全記録」の「冥友録」から、この年に亡くなった有名人を列挙してみよう。「メーテルリンク」「海野十三」「佐藤紅緑」「六代目尾上菊五郎」「石原莞爾」「上村松園」「中島知久平」「田中英光」「若槻礼次郎」「森田草平」。あなたはこのうち何人に聞き覚えがあるだろうか。
 ここに掲げる 1949 年型のくるまは上から次のとおり。
1. Cadillac 62 Sedanet
2. Chrysler Country Convertible
3. Hudson Commodore Six Sedan
4. Kaiser Virginian
5. Mercury 6 Passenger Coupe
6. Oldsmobile Futuramic Oldsmobile 88
7. Pontiac 4 Door
 このころのアメリカでは、まだ自動車メーカーが多数割拠していて、いまのように GM、Ford, Chrysler の3社に集約されていなかった。この年のくるまは、まだ戦前の型を使ってそのまま生産していたモデルが多かった。ただしアメリカでは日本と違って、このころすでにいろいろなカラーのくるまが登場していたことだ。後年のモデル、たとえば1955年型のモデルほど派手ではないが、すでに赤や緑系統の色が使われていたのが目につく。今の人には信じられないかも知れないが、戦前の日本車はすべて黒一色であった。
 このなかで目を引くのは Kaiser で、この会社は三菱重工と提携していたアメリカのちいさなメーカーであった。当時の三菱は GHQ により分割されていて、たぶん中日本重工という名の三菱重工の一部の会社がノックダウンしていたと思う。Kaiser 社は、アメリカでも競争についていけず、間もなく姿を消す。その後分割されていた三菱重工は統合を果たし、いまの姿に変わってゆく。
 このころの日本人の生活は、文字通り「食うや食わず」の状態であった。配給だけの食料しか食べずに(食べられずに)飢死した検事もいたし、庶民はヤミで食料を調達しようとしても、調達するすべがなかった。カネもモノも食料との物々交換の対象とは成り得ず、当時の百姓、いまの農民は秀吉以来の「士農工商」の重圧から抜け出して「日本の歴史始まって以来初めての好況」といわれた時代であったから、正直なところ、日本人は生存するだけがやっとのことで、くるまどころではなかったが、戦勝国アメリカの自動車事情はこうなっていた。この頃海外から自動車輸入のワクをもらえたのは、官公庁と新聞社など、ごく限られた一部であったと記憶する。