tokyokidの書評・論評・日記

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コラム・わたしのアメリカ観察 4

★ワシントン・ハイツ
 前後足掛け六年間、学費を稼がせてもらったワシントン・ハイツのことをもう少し書いておこう。
 当時の東京には、進駐軍兵士のかなり大規模な宿舎が、あちこちにあった。ワシントン・ハイツはその代表的なもので、いまの山手線の渋谷と原宿から代々木、それに小田急線の参宮橋駅を結ぶ広大な敷地にあった。ここは戦前代々木の練兵場として知られたところで、都心に近いことから、米軍でも准尉以上の将校とその家族専用の宿舎であった。将校であれば陸海空軍を問わず、その家族が住んでいたのである。ちなみに、アメリカの軍制のなかで「空軍」が「陸軍」から分離・独立したのは戦後のことであった。それはともかく、ワシントン・ハイツのそれぞれの建物は、2軒または4軒長屋の急造の建物であった。それでも東京は一面焼け野原となっていて、都民についていえば、焼け残った戦前からの家屋に住んでいた人はまだ運のいいほうで、庭に掘った防空壕に住んでいた家族もたくさんいた当時の東京であったから、このような軍用の住宅地は、当時の日本人にとっては夢の住宅地であった。これらのワシントン・ハイツの建物の建設は、いまも大手として知られる鹿島建設が請け負い、これが同社の戦後の復興の足がかりとなったと伝えられる。ほかにも運送部門を請け負った国際興業そのほか、当時の進駐軍の仕事を請け負って、その後の日本の経済発展に伴って大企業にのし上がった会社は数多くある。
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 参考までに、当時のワシントン・ハイツの敷地図を写真版で掲げておく。これで道路と建物の相互関係を見ることができる。さすがアメリカで、こういう場合まず道路を作り、それに沿って建物を充分な間隔をとって配置してあるのが明らかに見てとれる。入ってみれば道路沿いには街路樹が植えてあって、至るところで緑の木陰を作っており、ところどころに充分に野球やサッカーでもできるくらいの面積の芝生があった。ローマ帝国以来、都市計画を磨きあげてきた白人種の末裔であるアメリカ人のすることはさすが・・・と感心していた覚えがある。
当然のことながら、当時のワシントン・ハイツには、住宅だけでなく、大劇場や水泳プールなどを完備した体育館や、PXと呼ばれたいまの大規模スーパーマーケットなども付属していた。
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ちなみに当時の東京には、渋谷のワシントン・ハイツのほかにも、米軍を含む連合軍兵士のための宿舎があちこちにあった。下士官以下とその家族専用のグラント・ハイツ(練馬区)、あと家族帯同でない兵士用としてはパーシンググ・ハイツ(新宿区)、パレス・ハイツ(千代田区)、ジェファーソン・ハイツ(同)などがあった。ほかにも大きなホテルが接収されて軍の宿舎になっていたし、昭和25(一九五〇)年に始まった朝鮮戦争では、日本で休暇を過ごす兵士のために急造のホテルがいくつも建てられた。たとえば「ダテ・ホテル」は品川区、「モウリ・ホテル」は港区、などである。これらは旧華族の屋敷跡に建てられた。つまり江戸時代の各藩の江戸屋敷跡地であり、朝鮮戦争が終わると、多くは当時の衆院議長・堤康次郎率いる西武グループに買収されて、のちのプリンス系ホテルとなっていった。□
*写真は1950(昭和30)年当時のワシントン・ハイツ敷地図。右側を走っているのが山手線で原宿駅付近。ワシントン・ハイツは旧代々木練兵場跡につくられた。