tokyokidの書評・論評・日記

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コラム・わたしのアメリカ観察 1

tokyokid2011-09-30

アメリカとは、の話

 最初にアメリカにきたとき、日本はどうしてこんな大きな国と戦争をする気になったのか、という疑問が頭の中をよぎった。誰も同じ疑問を持つと見え、アメリ旅行記のたぐいを読むと多くの著者が同じことを書いている。日本は南北に長い国だが島国で、本土だけでも時差が三時間もある大陸国家のアメリカとくらべればこうも違うのか、と思うことがらがいくつもでてきた。
 当時書物から得た知識では、アメリカの国土は日本の25倍、人口は2倍強、50の州があって、それぞれ憲法を持って自治政治を行っている。州をまとめるには連邦とよばれる組織があって、州との違いは軍事、海外とそれから州をまたがる事柄が担当だということであった。それなら「合衆国」ではなくて「合州国」ではないかという説にもお目にかかったが、実際にアメリカにきて街角の風景を眺めてみれば、これもやはり書物に書いてあったとおりアメリカは「人種のるつぼ」である。これなら基準に個人を置くか自治体を置くかの違いだけで、どちらも名は体を表していることに違いはないではないか、と思ったりした。
 私の初めての外国はたまたまアメリカ合衆国であって、その旅は一九六七年八月五日の午後二時二七分、太平洋上の日付変更線を横切ることで始まった。なんでそんな細かなことを覚えているかというと、当時JALでは日本からアメリカに向かうすべての乗客に機長のサイン入りで棟方志功の極彩色絵入りの「日付変更線通過記念証」を交付していて、いまでもそれが額に入って居間に飾られてあるからである。私が31歳のときのことであった。当時の世相はまだ敗戦時の荒廃部分があちこちに残っており、三年前の一九六四年に東京オリンピックを成功させてようやく戦後の復興の混乱期から脱して経済の高度成長期に突入していたときの、いわば活気に満ちた時期であった。当時日本の企業も、ようやく中間管理職の末席に連なった私のような若僧にも外国に業務出張をさせる程度には余裕ができてきていた。一九六七年は昭和42年で、このときアメリカはジョンソン大統領の時期で、ベトナム戦争の真最中であった。アメリカの世情は騒然としており、一九六五年八月には歴史に残るロスアンジェルス市ワッツ地区で黒人暴動が起こり、これが契機となって2年後のこの年もナッシュビルで暴動が起こり、続いてフロリダ、オハイオ、ニューヨーク、ミシガンなどでも連続して起こっていた時期であった。
 当時のJALは太平洋横断にDC-8 を使用しており、もはやプロペラ機からジェット機の時代になっていたが、飛行機は羽田を発つと次はホノルルで、給油ののち私の乗った機はサンフランシスコに向かった。当時の太平洋横断国際線の乗客はビジネス客がほとんどで、観光客はあまり見かけなかったように記憶する。
 市場調査が当時の私の役目だったが、六個月かけて全米を回ってみると、カリフォルニア州の面積は日本とほとんど同じでありながら、経済力の指標では、GNPも人口も全米の一割を占め、隣国であれほど広大な国土を持つカナダとも同じくらい、ということがわかった。
これが前口上で、わたしのアメリカ観察記事は次に始まる。□
*写真は当時使用されていたJAL DC−8型機(当時同社が乗客に配った絵葉書から)