tokyokidの書評・論評・日記

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論評・EWJ「四字熟語」コラム・呑舟之魚

tokyokid2011-09-03

(十九)「呑舟之魚」(どんしゅうのうお)
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 舟を丸呑みにしてしまうほどの大きな魚、ということであるが、大きな人物や大いなる悪党に例えられる。関連する言葉に「呑舟の魚は枝流(しりゅう)に游がず」というのがあって、この意味するところは、大人物は小さなことに関わらない、ということである。出典は「列子」揚朱。いずれにしても、「舟」は社会の全体または一部分を指し、「魚」は個人を表していることに異論はなかろう。試みに「大人物」を辞書で引いてみると「大器量の人、偉人」とあり、「悪党」とは「わるもの」とあるから(広辞苑)、「大悪党」は「とても悪い者」ということであろう。
 「大人物」や「大悪党」とはどんなものか、試みにインターネットで検索してみて驚いた。日本語サイトで引いたのだが、「大人物」は約二万二千件、「大悪党」は約九千件でてきた。最初の数ベージを繰る限りでは子供服のリサイクルブランド・大人物や、映画の題名・大悪党とそれに関わるサイトばかりであった。むかし子どもの頃読んだ「世界偉人伝」のたぐいの本では、大人物としてナポレオンや太閤秀吉やキューリー夫人、大悪党のほうは講談のヒーローで石川五右衛門(いしかわ・ごえもん)や鼠小僧次郎吉(ねずみこぞう・じろきち)や日本左衛門(にほん・ざえもん)など、めくるめくばかりの偉人や悪党が並んでいて、それらの伝記を読んで「血沸き、肉躍る」思いをしたものだった。ここに挙げた大悪党の三人は、いずれも戦国時代から江戸時代にかけて実在した大盗賊だが、そのなかには「あるところから盗んで、ないところに恵む」義賊もあり、どちらかといえば(いくら努力しても自分は絶対になれそうもない)偉人よりは、(うまくすると自分が恵まれるほうに繰り入れられる可能性のある)悪党のほうに親しみを感じたものであった。インターネットサイトでは、「大人物」や「大悪党」はいまや子供服や映画の題名に(新聞でいえば)一面トップの座を譲って、奥床しくも検索サイトのあとのほうに鎮座ましましているのか、それとも全く姿を消してしまったのか、こちらも数千件を全部見て回るほどヒマではないので、その辺のことは定かではない。
 話を「呑舟之魚」に戻すと、上述したように、舟は社会で魚は個人であるところから、この言葉がひんぱんに使われたころは、まだまだ社会に対する個人の力がそれなりに発揮される時代だったのだろう。その頃と現在を比較してみると、たとえばいずれも戦争に大勝したナポレオンとマッカーサー元帥、国を治める立場に立つ太閤秀吉と小泉純一郎氏、その業績で社会に偉大な貢献をしたキューリー夫人とヘレン・ケラー女史、悪党のほうでは戦国時代から江戸にかけての大盗賊といまはやりのフィッシングで個人情報を盗み出すIT盗賊をくらべてみて、それぞれ個人の業績の大小に問題を限定すれば、それほどの差があるわけではなかろう。
 それではなぜ昔は「呑舟の魚」があっていまはいないかというと、産業革命以来、世界の技術革新の速度が加速度的に早くなって、そのゆえに社会科学的にも森羅万象の管理技術が発達して、いまや事を成そうとすれば個人ひとりの力ではほとんど達成不可能で、組織によるほかはなくなった。そういう時代にわれわれは生きているからではないか。ゆえにいまでは多少の業績を個人的に挙げたとしても、ノーベル賞を受賞するくらいであればいざ知らず、少々のことでは「呑舟之魚」現象は起きなくなってしまったのだ。それだけ世の中は複雑になってしまったのである。□