tokyokidの書評・論評・日記

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書評・美しいひとの世紀へ

tokyokid2008-04-14

書評・美しいひとの世紀へ(タカラベルモント株式会社・発行)AZビジコム株式会社・制作

【あらすじ】
 本書は「タカラベルモント75年史」という副題がつき、現在では理容・美容・歯科・医療・鋳物・ホーロー製品の製造・販売を目的とする一私企業の社史(非売品)である。大正10年(一九二一)に合資会社・宝鋳造所として創業者の吉川秀信によって設立されたいわば「鋳物」工場が、その後製品の範囲を「鋳物部品」から理美容・医療用などの椅子・設備などに至るまでの「最終製品」のメーカーとして業容を拡大し、日本のみならず全世界に君臨するまでに成長した同社の歴史を、豊富な写真や図を用いて社史にまとめあげた。特筆すべきは、同社は自社の系列企業として、地域別の販社はもちろん、広い意味で同社の製品に関連するところの住宅設備・化粧品などからデザインを手掛ける子会社に至るまで、非常に広い範囲の「関連の」業務を担当する会社群を、30社ほどもある同社のグループ会社に含む手広さを示していることである。本書は平成9年(一九九七)に発行されたところの、同社創業以来初めて編纂された社史であるが、社史としては珍しく、記述中にその時代の世相をふんだんに織り込み、同社製品にまつわる時代相をよく映しているのが、すぐれた特徴である。
【読みどころ】
 内容は「序章」から始まって、創業以来の年代を追って第一章から第九章まであり、さらに「企業目的・経営理念・行動指針」を別項で明確にし、さらに「主要商品史」「資料編」が続く。三百三十頁余りに及ぶ全頁カラー印刷の大冊である。目次だけに5頁を費やしており、それを一読しただけで、同社の歩みと時代の動きを理解することができる。たとえば「第一章・創業の時代・大正10年〜昭和19年」を例にとると、「時代/大正モダニズムから軍国主義へ」「業界/業界の歩み」「歩み1/大正10年・合資会社宝鋳造所が創業」「歩み2/ホーロー技術を加えて、株式会社へ」「歩み3/理容椅子の製造を開始」「歩み4/活況を呈するが、戦争で軍需工場へ」「技術史/鋳物」「焦点/創業者・吉川秀信」「話題/本社所在地の変遷」といった具合である。同社の歩みだけの記述ではなく、同時代の世相を丹念に描き出してあることは前述のとおりであるが、とてもわかりやすく、読みやすいので、読んでいるうちに本書が社史であることを忘れるほどである。
【ひとこと】 
 創業者の吉川秀信は、親が「秀吉と信長を合わせたような大人物になることを願って」命名したというだけあって、さすがにスケールの大きい人物であった。明治維新以降の文明開化の時代にあって、おおげさにいえば、日本中に「鋳物工場」は星の数ほど出現したに違いなく、現在でも戦前から続く鋳物会社はべつに珍しくもない。そのなかで、いわば「部品」である「鋳物」製造から出発しながら、さらに付加価値をつけた「最終製品」に進出し、戦後半世紀経ってみれば、世界中を席巻する大企業にのし上がった会社がいくつあるだろうか。仄聞するところによると、カリスマ経営者として有名な京セラ株式会社の創業者・稲盛和夫氏は「会社は経営者の器を超えて大きくなることはない」と説くといわれる。現在のタカラベルモント株式会社の業容からすれば、同社の創業者・吉川秀信の人間としての器の大きさが実感として感得できようというものである。
【それはさておき】
 それでは同社がなぜ創業当時の鋳物部品工場から現在見られるような健康・環境関連の最終製品の大会社に脱皮できたか、それを評者なりに考えてみた。理由をひとことで言うと、同社は外部の力を借りることに躊躇せず、つねに時代の先を読んで、ひとびとが求めるものを社内と社外が協力して作り出す知恵と努力を集中して出してきた歴史を持つからだ。このことは誰にでもできることではなく、現に有望な技術や製品を持ちながら、一向に成長しない企業は日本に掃いて捨てるほどある。そのような企業の経営者は、他人の意見を聞く姿勢を持たないのである。その意味で、大人物の吉川秀信が率いたタカラベルモント株式会社には、「外部の知恵を借りる・他人の言うことに耳を傾ける」DNAが、この伝統を当社に長く保持させていると見ることもできる。その事実をこの社史の第一三〇頁から一例だけ挙げると、昭和45年(一九七〇)に大阪万博が開催されたが、居並ぶ三井・三菱等の大企業と並んで、中小企業である同社も参加した。当時「タカラ・ビューティリオン」と名付けられた、ジャングルジムにカプセルを組み込んだかたちの同社のパビリオンは、その斬新なデザインと設計思想で大いに話題を呼んだが、設計は先日他界した黒川紀章であったほかに著名のデザイナー、音楽家から照明・コスチュームに至るまで当時の第一人者を総動員して作られたものだった。同社の大阪万博出展関連費用は、当時の資本金をはるかに上回るといわれたが、同社はそれだけの投資を回収するために、外部の力を借りる意志とノウハウがすでに当時から蓄積されていたことになる。別の見方をすれば、同社は製品のデザインに力を入れる会社で、これはこの社史にでてくる同社製品が、いつも時代の先端を走るデザインを身にまとって登場することからも明らかである。なお別の面で同社の特異なところをひとつ挙げると、これだけの大企業に成長したあとでも、相変わらず株式を公開せず、私企業のワクに踏みとどまっていることである(関連会社では上場会社が存在する)。外資ファンドなどの容喙におびえて、いったん証券取引所に上場しながら、また非公開企業に戻る大会社も散見される世の中にあって、同社の一貫したポリシーはひときわ光るものがある。□