tokyokidの書評・論評・日記

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書評・新制中学校の成立

tokyokid2007-08-09

書評・★新制中学校の成立(飯干陽著)みすず書房

【あらすじ】
「敗戦直後の極度の混乱と窮乏のなか、未知なる平和世界への先駆けとして、新制中学校は発足した。東京都品川区立浜川中学校もそのひとつである。中学校が新制を公的に名乗ったのは、昭和22年(一九四七)から24年(一九四九)までであった」。以上は「第一部・新制中学校の一千日」「第二部・六三制の発足」の2部からなる本書の、第一部の扉に記してある。平成のいまでも時折使われる学制の「新制」という言葉の定義として、正確である。本書はその「浜川中学校」の教諭であった著者が、当時の「新制中学校」の模様を、前半の第一部で私(わたくし)の日誌をもとに書き綴ったものであり、半世紀以上経った現在となっては、ますます貴重な記録であることは多言を要しない。後半の第二部は、戦後日本を占領して数々の改革を断行した米軍(=米国)が、日本に「アメリカ教育使節団」を、敗戦の翌昭和21年(一九四六)3月に送り込み、日本政府と折衝を行ったが、その「アメリカ教育使節団報告書」をも概観しながら、「新制」の学制はアメリカに押し付けられた日本にとっては新しい教育制度であったばかりではなく、教育に熱心な一般の日本国民の「中等教育をすべての国民に」という熱望によって、あの混乱を極め、筆舌に尽くせない経済の困窮のさなかにあった戦後社会にもかかわらず実現されたものだ、と著者は言う。
【読みどころ】
「空気が青く澄んでいたとき」の題で始まる「はしかきに代えて」で、著者はこう述べる。「品川区立浜川中学校の“四期生”(昭和二六年三月卒業)は、九クラス・四九一名の大世帯であったが、昭和四〇年以来、合同の同期会を年一回ずつ欠かさずに開いてきて、ことしで二五周年を迎えた。その記念誌を作ることになって、それに寄稿を求められたので、私は次のような感想を書き送った。(中略)あなたがたより一年先輩にあたる、昭和二三年の六月頃、新制中学校に学んでいた方の思い出話を最近雑誌で読みました。「われわれと同じくらいの年代の方ならご存じでしょうけれども、ぼくらは新制中学の第一回の生徒で、・・・何から何まで、ゼロからスタートしているわけですから、非常に自由だったんです。先生たちもそれまでの教育というものが全部崩壊して、新しい、いわゆる民主教育というものをどうやっていいかわからない。それだけみんあ理想に燃えて、手さぐりでもって、一生懸命になって教えて、ぼくらもわからないながら、そういう熱気がまた楽しくて、今から考えるとあのときぐらい空気が青く澄んでいた時期はなかった」(長部日出雄・“ちくま”一九八八年八月号・筑摩書房)。このような雰囲気のなかで出発した「新制中学校」の日々の活動について、著者は日誌をもとにして、本書の第一部に細大漏らさず書き綴った。昭和二二年度から昭和二五年度の「新制中学校第四年」まで、食料不足やララ物資や台風の襲来など社会の出来事も含めて、施行規則や指導要領、日教組結成から自治会、図書室、学芸会、運動会からはては青空学級、みかん箱授業、買い出しからアチーブメント・テスト、もちろん教科・教師名から時間割まで、夜間中学校のことに至るまで、微に入り細を穿って当時の新制中学校の様子を知ることができる。本書評で取り上げた「あたらしい憲法のはなし」の話も洩れていない。
【ひとこと】
 平和ボケが半世紀続いた平成の現在からみて、当時の世相がいかに乱れていたかについては、以下の挿話で想像するよりなさそうだ。第一部の一四九頁に「盗難、宿日直」として次の記述がある。「当時は、ねぐらを持たない人が一夜の宿りを学校に求めて無断で泊り込んだり、ときによるとある商売をする人のホテル代りになったりしたことさえあった」。上記の「ある商売」とは当然売春のことであろうし、当時一般に売春婦のことを「パンパン」と呼んでいたが、これは死語になった。戦後間もなくの当時は、銀座から富士山が見えたと伝えられたが、一面焼け野原から立ち上がろうとしていた庶民の息吹が、中学校という舞台で再現されているのが本書なのである。
【それはさておき】
 じつは、評者は本書に取り上げられている東京都品川区立浜川中学校に、新制第2期生として昭和二三年四月に入学し、同二六年三月に卒業した。在学中飯干陽(いいほし・あきら)先生に音楽を教わった記憶がかすかに残っているが、細身で長身の颯爽とした先生の風貌はいまでもよく思い出すことができる。学年で四九一名というのは、人数でいえばいまのジャンボ機一機分の乗客数と同じようなものであるから大したことはないという印象かも知れないが、中学校の一学年の生徒数としては、ひとクラス五〇名の定員とともに、驚くべき多人数のクラス編成であった。当時の世相は荒廃の一語に尽きる状態であったが、義務教育の現場である中学校にも、その余波は及んでいた。私どもは新制の第2期生が一生ついてまわり、例えば戦前は旧制の女子高校だったのが戦後「新制」に切り換ったことで男女共学となり、私どもが高校に入学したとき、3年生には男子はひとりも居なかったのであった。いまでは歴史の一部となってしまった「新制」だが、その歴史の生き証人は「どっこい」まだ生きているのである。□