tokyokidの書評・論評・日記

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書評・マリリン・ノーマ・ジーン

tokyokid2007-05-01

書評・★マリリン・ノーマ・ジーン(グロリア・スタイネム著)ニューアメリカンライブラリー社刊ペーパーバック/邦訳・「マリリン」グロリア・スタイネム著、道下匡子訳、草思社

【あらすじ】 
 昭和生れが一億人を割った平成十九年の現在でも、死んでから半世紀近く経ったマリリン・モンローの名前を知らない人は、それほど多くはないだろう。いまだに報道でも芸術でも、もちろん本業だった映画女優としても、マリリン・モンローの対世間露出度は同世代女優のなかでも飛び抜けて高い。その名はいまでも一般人の目に触れる機会が多いと思われる。そのマリリン・モンローの評伝を、コラムニストであり女性運動家としても知られるグロリア・スタイネムが書いた。同じ女性の目で、それも同性である女性にはとくに一家言を持つ女性が評伝を書く。その点だけからも、あまた存在するほかのマリリン・モンロー評伝とはひと味違ったものを期待する向きもあろう。そしてその期待は裏切られることはない。英語の原題は「Marilyn Norma Jeane」と、マリリン・モンローの少女時代の本名も取り入れたものとなっている。ペーパーバック本だが、写真家のジョージ・バリスの当時初公開といわれたマリリン・モンローの写真も20葉近く収録されていて、これらの写真がまたマリリン・モンローの魅力を最大限に引き出している。
【読みどころ】
 著者のグロリア・スタイネムは一九三四(昭和九)年のオハイオ州トレド生れで、ドイツ系の母親とユダヤ人だった父親の間に生れた。プレイポーイ誌のバニー・ガールを経て、名門のエスクワイア誌などに寄稿するジャーナリストとなり、女性運動家としても有名になった。女性誌として名のある雑誌「Ms. Magazine」を創刊したのは彼女である。もともと英語では敬称として男性には「Mr.」、女性には「Mrs.」または「Miss」をつけて女性だけ結婚前と結婚後の呼称を変えていたものが、第二次世界大戦後女性の意識が高まるにつれて、女性の場合だけ結婚前と結婚後で敬称が異なるという状況に異議が唱えられ、区別をなくして新しく生れたのが「Ms.」(ミズ)の呼称であった。この呼称を自分の雑誌の題名とするほどに、グロリア・スタイネムは女性の地位や意識に特別の思い入れがあった人であった。政治意識も高かった、といわれる。本書はこういう背景を持つ女性ジャーナリストが書いた、マリリン・モンローの評伝なのである。グロリア・スタイネスだけに限らず、マリリン・モンローについて複数の人が言うことだが、セックス・アイドルにしては、彼女は実際のセックスで自身エクスタシーを感じることはなかったのではないか、ということだ。また彼女自身セックスは相手を喜ばせるためのいわば義務であると感じていたようだ、との証言もある。実態と実際がかけ離れている気の毒な、むしろ痛々しい話ではなかろうか。
【ひとこと】
 よく知られるように、マリリン・モンローは一九二六(大正十五)年生れで、一九六二年(昭和三七)、三六歳で没。自宅のベッド上で電話機を握ったままこと切れていたという最期の状況に至った理由は、諸説あって真相はいまだに謎のままである。当時セックス・アイドルとしてもてはやされていたマリリン・モンローについて、ふたつのことを指摘したい。ひとつは、モンロー自身は「自分をただの美人ではなく、知性ある女性として」他人に認識してもらいたいという強い欲望があり、そのために本人も努力していた、という事実である。もうひとつは、単なる金髪美人女優とみなされがちなモンローであったが、実は一九六〇年のゴールデン・グローブ賞の最優秀女優賞を「Some Like It Hot」(邦題・お熱いのがお好き)で獲得している事実に裏打ちされる演技力の持主であったことだ。この作品は一九五九年のユナイテッド・アーチスツ社制作の映画で、ビリー・ワイルダー監督、マリリン・モンローのほかに若き日のトニー・カーティスジャック・レモンも共演しているモノクロ映画だ。評者はこの原稿を書くに当って、この作品をビデオで見返してみたが、これはいかにもしゃれたアメリカ映画らしく、映画の筋もマリリン・モンローの実生活をうまくギャグに取り入れており、観客をしこたま笑わせる。
(ちなみに、次の年には、同じビリ−・ワイルダー監督の「The Apartment」(邦題・アパートの鍵貸します)で、女優のシャーリー・マックレーンが同じ賞を受賞している。この頃は笑いのなかにもペーソスがあり、アメリカ映画の黄金時代であった)
マリリン・モンロー自身は、この映画を撮影したころから神経を病み、坂道を転げ落ちるようにその若すぎる死に向う。そのところを、グロリア・スタイネムの筆で読むのが本書の醍醐味なのだ。
【それはさておき】
 周知のとおり、マリリン・モンローは三度結婚した。相手は無名のジェームス・ドーティ(一九四二年)、野球選手のジョー・ディマジオ(一九五四年)、作家のアーサー・ミラー(一九五六年)である。この結婚相手のリストからも、マリリン・モンローの心と健康の軌跡が見てとれよう。出演料もうなぎ昇りとなり、最初一九四八年に映画出演したときの報酬はわずかに週150ドルであったといわれるが、マリリン・モンロー自身にとっても最盛期であった上記の一九五九年の「お熱いのがお好き」のときは、20万ドルブラスボーナスがついたといわれる。一九五九(昭和三四)年は、アメリ自動車産業の黄金期(末期近くではあったが)でもあり、各社いっせいに巨大な尾ひれをつけた(とくに大型車)くるまが全盛の時代でもあった。たとえばその年のシボレー・ベルエアのV8気筒車であっても(当時は直列6気筒が標準)2500ドル程度で買えた時代の20万ドルであった。
本書は「マリリン」として道下匡子訳で、草思社から邦訳本が出版されている。それにしてもマリリン・モンローは、生前も死後も、女優としても人間としても、戦前から戦後にかけて同じ激動の時代を駆け抜けたわれら(男性のみに留まらず)同時代人の心をときめかせ、捉えて離さなかった稀有の存在であった。□