tokyokidの書評・論評・日記

tokyokid の書評・論評・日記などの記事を、主題に対する主観を明らかにしつつ、奥行きに富んだ内容のブログにしたい。

日記200621・三日目、三週間目、三か月目

日記200621・三日目、三週間目、三か月目

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 そろそろ五月病の季節か。よく新入社員がせっかく入社した会社を辞めるのが、入社して三日目、三週間目、三か月目というあれだ。

 だいたい今の若い人は肝が坐っておらん。それに他人の話を聞く雅量がない。そう躾けられていないのだ。赤ん坊のときからあまやかされて「ええわ、ええわ」で育てられてきたからこうなってしまったのだ、と私は見ている。違うかな?

 肝の座り方からいうと、何に対しても覚悟がない。覚悟どころか見通しもない。そして我欲だけは強いから、自分のやりたいことだけしかやらない、できない。やる気すら起きない。起こそうとしない。なにがどうなっても他人のせいであって自分がその原因を作ったなどとは夢にも思っていない。他人の話を聞く雅量に至っては申すも愚かな事、だいたい会話をしない。仲間内で符牒のような言葉のやりとりをするだけで実のある会話などない。のっけから彼ら仲間内すら信用していない。

 こうしてモヤシみたいなウドの大木が出来上がって、別にむずかしい試験もなくて卒業証書を貰って就職して、そして三日目、三週間目、三か月目に辞めていく。先の見通しも立てずに。まだ「非常時用の一ヶ月の月収分の貯金」もできていないのに。

 そして「フリーター」という名の高等遊民となり下がり、親のスネを食らって一生過ごす。「結構なご身分」とはこのことだ。

 自分のやりたいことだけをやって生きていかれるなら、こんな楽なことはない。いまは日本人全体がそれを目標に生きる時代なのだろう。問題はそのうちどれほどが、終生自分のやりたいことを貫き通せるかだが。□(写真はネットから借用)

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日記200611・18合って?

日記20061118合って?

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 テレビで北海道の大家族を取材していた。なんでも育ち盛りの12人だかの子持ちだそうだが、アナウンサーが「夕飯にはお米を何合炊かれるのですか」と質問したら、そこの奥さんは業務用の大きな電気炊飯器を前に「18合です」と答えた。私は目を剥いた。言うに事欠いて18合はないだろう、そういう場合は「18合」と言うんだろう、と心の中で思いながら。だがいまでは昔の日本古来の度量衡の言い方まで変ってしまったらしい。そうは言っても下の業務用炊飯器は「3升炊き」となっているが。

 戦後割合すぐ古い度量衡が廃止されてメートル法が施行されたとき、米はそれまでの容量単位から重量単位に変った。それまでは米の基本単位は1俵つまり4斗であった。1斗は10升、1升は10合、1合は10勺であるから、計算上18合を18合というのは誤りではない。慣用上そう言わなかっただけだ。

 いまは昔の1俵に当るのが60キロの紙袋だ。昔はたわらの一俵を大の男が担ぎ上げることができなければ一人前と見なされなかった。いまではこの60キロ紙袋だろう。キミは60キロの米袋を担げるか?

 話変って、江戸時代の武士の俸給は米だった。一石というのは10斗のことであるから、俵で換算すると2俵半、なのだ。江戸時代でいうと、1万石以上を大名といい、自分の領地を直接治めていた。いわゆる封建制度だ。それ以下のたとえば幕府の高級役人はたとえば8千石などと高給を貰っていた。たとえば池波正太郎の「鬼平」に出てくる火付改方長官・長谷川平蔵は実在の人物であったが、俸給は400石だったといわれる。たった400石で当時の首都の江戸の治安を僅かな手勢で守っていたわけだ。いまの役人の数に比べてその少なさに驚くほかはない。先日東海道の島田宿の陣屋跡に行ってみた。そこの立札に「江戸時代島田宿の役人はなにがしで、俸給は150俵、とあった。東海道の要衝である大井川の東側の島田宿をわずか150俵の幕府の役人が守っていたわけだ。150俵を石数に換算すると、1俵は4斗だから600斗、1石は10斗だからこの人の俸給はわずか60石であった。当時は200石以下の俸給の武士は「お目見得以下」といい、将軍に直接会うことはできなかった。そんな下級武士が島田宿を守っていたのであった。

 するとこの北海道の大家族は、江戸時代であれば、18合×365日=6570合つまり6.6石余となり、夕飯だけでこうだから諸雑費入れてエイヤッと倍の14石に近いと仮定する。14石は約33俵であるから島田の宿役人の俸給はたった150俵といえども現在の北海道の大家族の5倍の収入があったことになる。当時の庶民の暮しとくらべればずっとゆとりがあるように思われるが、果たしてどうだったのだろうか。□(写真はネットから借用)

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日記200601・入院見聞録

日記200601・入院見聞録

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 万病?併発の折りとて「いちどデータを取っておきましょう」ということになり、五日間ほど検査入院してきた。朝夕血圧や体温を測るのはもちろん、いまどきは24時間心電図というのもあって、医者殿は縦横無尽にデータを取っていらした。もっとも実際に撮るのは看護婦殿であった。四人詰めの大部屋であったので、私を含めて同室者の人間模様を観察することができた。印象に残ったものをいくつか書き記してみる。

 

1)「・・・・・してもらってもいいですか?」

ここでもこの言葉の洪水だった。たとえば看護婦が患者に向って「腕の絆創膏を自分で取ってもらっていいですか?」と言ったとする。言った本人はそう言ったことによって自分は患者に「腕の絆創膏を取って下さい」と指示したつもりらしいが、聞いた当方は単純に「腕の絆創膏を取ってもいいですか?」と質問されたものと解釈して「もちろんいいですよ」と答えてそのまま待っていると何も起こらない、という仕掛だ。当方にしてみれば依頼または命令されていないことを当方がやるわけないよね。肝腎のするべきことをきちんと言葉にしていない、というこの言い回しはどこから来たんだろう。いったいぜんたいいまどきの日本語はどうなっているのだろう。

 

2)「ナースコール」

四人のうち二人は重症と見えて、ないしはそのフリをしているだけと見えて、なにかというとすぐナースコールを押していた。用件は尿瓶やおむつの後始末から見えなくなったメガネの捜索までさまざまであったが、問題は相手の都合かまわずナースコールのボタンを押すものだから、担当者がなかなか来ない。するとこの二人は、家族がきて話しているときの言葉の調子とまったく違う調子で声を張り上げたりモノをぶつけて音を出したりしてナースを呼ぶのである。その声がなんとも哀れでいまにも死にそうな甘い甘い猫なで声の大声を出して呼ぶ。男でもあんな声が出せるのかよ、という種類の声である。あれでは家長の尊厳などどうやって保てるものか。みずから家庭内の自分の地位を貶めているようなものだ。家に帰ったら英和辞書で dignity という語を引いてみな。日本の男の価値も下がったものだ。

 

3)「女は男に抱きつくものじゃない」

途中から入ってきた隣の爺様は、小学校高学年くらいの女の孫が見舞いにきてよろこんで「おじいちゃん・・・・・」といって布団の上から抱き付いたらしい。そしたらこともあろうにその爺様は女の子に向って「女は男に抱き付くものじゃない」と大声で叱っていた。その子は気丈な子で泣きはしなかったが、無言で自分のじいちゃんから離れたようだ。言った爺様は「男はオオカミだから女は無暗に男に抱き付いたりするな」の意味だろうが、子供にはそうと説明しなければわからない場合だってある。それに自分の子どもや孫を性欲の対象として見る爺様がそうそう居るとも思えない。厳格も時によりけり、いまは肉親の情愛も性欲の発露としてしか教えられない世の中になったのかなあ。

 

 以上三題、当方の認識不足を暴露しただけのお粗末でした。□(写真はネットから借用)

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日記200521・大観先生

日記200521・大観先生

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 横山大観といえば日本人なら誰も知らない人はいない日本画家の大家中の大家なのだが、じつは戦前、私は父に連れられてこの大観先生のご自宅に伺って先生に直接お目にかかったことがある。多分昭和161941)年のちょうどいまごろの季節のことで、私は満五歳だったはずだ。

 父の用件は仕事上(海上火災保険業)のことであったようで、私は父に言われたとおり先生にご挨拶申し上げた以外に会話をした覚えはない。上野・池之端のご自宅で、いまは大観記念館になっているはずの純和風のお宅だったことを覚えている。もう一つ、通された部屋が一枚目の写真の部屋だったと見えて、下半分ガラスの障子だったことがかすかに記憶に残っている。でも写真のような先生の笑顔は一切記憶になく、むしろ最後の写真のような真面目な顔しか覚えていないから、ま、わたしの父の用件のないようからすれば当然であったろう。

 もちろんその時は大観先生のことなど知る由もなく、ただ「絵描きの偉い先生」と聞かされていたに過ぎなかったと思う。それからかれこれ八十年経つが、この経験は私の学齢前の大切な記憶として、父亡き今となっては、私の胸だけに大切に仕舞われている先生と父と一緒の、かけがえのないセピア色の記憶になっている。□

(写真はネットから借用)

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日記200511・うまい菓子パンはもうない

日記200511・うまい菓子パンはもうない

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 結論から言おう。令和の今、世の中にうまい菓子パンはもうない。丹念に探せばあるのかも知れないが、ま、通り一遍のことでは見付からない。これは戦後すぐ存在し

た、当時のうまい菓子パンへの挽歌である。

 最初にコッペパン、と言うと「コッペパンは菓子パンではないよ」という声が聞こえてきそうな気がする。ま、そう言わないで、大事な脇役のひとつとして聞いてほしい。コッペパンの語源は知らない。語感からして多分ドイツ語系なのであろうか。それともなにかの略語なのかな。ご存じの向きは教えてほしい。で、真っ白なふっくらと焼きあがったコッペパンは、何を塗ってもうまいのである。ただしいまはどんな食材でもいくらでも手に入るから、小麦粉にたっぷりとマーガリンを塗り込んでベチャベチャと焼いたコッペパンにさらに植物の油のにおいのするマーガリンとジャムを塗ったコッペ・ジャムパンが最低なのである。あとは野菜とマヨとか、単純にポテトサラダをはさんだだけのコッペパンサンドイッチもうまい。でもそれ土台となるパンがうまければの話で、ケーキのような甘い食パンがサンドイッチに使われた日にはおしまいである。この辺がわかっていない日本人は案外多い。パンにも種類はいくらでもあるんだよ。こんがりと焼き上がった昔のうまいパンはどこに行ったのだろうか。

 あとはジャムパン、クリームパン、チョココロネ、メロンパンなど、今出来の菓子パンは軒並み例の「モチモチ」と称するベチャベチャの生焼けパンに変ってしまった。割れば生地が糸を引きそうな、こんな菓子パンを誰が喰いたいものか。

 味の調子はずれもいい加減にしてくれよ。□

(写真はネットから借用)

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日記200501・チッカッキュッ

日記200501・チッカッキュッ

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 昔は日本にも方言が豊富にあった。典型的なのは、東京・上野駅にいけば東北弁や北海道弁がいくらでも聞けたし、東京駅では大声で話し合う薩摩弁を聴くことができた。それがどこに行っても平板な「エセ標準語」に日本全国ローラーをかけた如く統一されてしまったのは、戦後4,5年経った昭和251950)年ごろ、世に「街頭テレビ」なるものが普及し始めてからではなかったか。

 私が現代のテレビで使われる日本語(口語)を「エセ」と断じるのには根拠がある。こんな口語の日本語は、それまでどこでも使われていなかったからだ。一例を挙げれば、語尾をなんでも「ですます調」にする口語なんてなかったのだ。それまでの口語というのは、もっと闊達なものだったのだ。言い方を変えればもっと親しみを込めた血の通ったものだったのだ。それがいまは、噴飯ものなのは、市販されているDVDを見るとわかる。男女が「入れさせてもらっていいですか」「はい、でも痛くしないで下さい」なんて「ですます調の文語体」でやっているよ。これが房事行為中の男女の会話かよ。噴飯物の日本語でなくて、なんだというのだ。だがこれで戦後の日本語の変遷がわかる。

 戦時中、昭和181943)年夏から戦後の昭和211946)年2月まで、私が疎開した埼玉の奥の田舎では、地理的にはもう群馬が隣村だったようなところだったが、そこでは子供達がジャンケンポンのことを「チッカッキュッ」と掛け声をかけていた。当時勿論東京では「ジャンケンポン」であった。私は小学校低学年のこどもだったから、すぐ溶け込んで皆と遊んだ。戦後小学校5年生のときに帰京したときも、私の埼玉弁はわずか二週間で完全にもとの東京弁に戻った。そのころ「エセ標準語」はなかった。これは近くても遠くても、どこでも方言があった時代の話である。いまはこの地方のこどもらでも「チッカッキュッ」とは言わず、東京と同じ「ジャンケンポン」になってしまっているそうな。読者諸賢の出身地ではどうですか。□

(写真はネットから借用)

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日記200421・如月の望月の頃

日記200421・如月の望月の頃

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 桜花の頃になると思いだす和歌がひとつあるがその話は後にして・・・・・・・

 如月は二月のこと、望月は満月のことである。今から半月前、桜花は満開であった。旧暦の如月がそれにあたるのかどうか私は知らない。その後雨が降ったりして今では桜花は半分も残っていない。

 今から九百年ほど前の西行法師は「願はくば花の下にて我れ死なむそは如月の望月の頃」と詠んだ。このうたほど日本人の誰でもが願う死にざまを詠み込んだ和歌は他にあるまい。私も「願はくば・・・・・」のクチなのだ。

 こよなく花が好きだった私の母は、四十年ほど前にこの和歌の通りに世を去った。母の月命日は四月十七日。その年は桜もまだ半分ほど残っていた。花好きの母としては本望だったろう。□

(写真はネットから借用)

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