tokyokidの書評・論評・日記

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日記200611・18合って?

日記20061118合って?

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 テレビで北海道の大家族を取材していた。なんでも育ち盛りの12人だかの子持ちだそうだが、アナウンサーが「夕飯にはお米を何合炊かれるのですか」と質問したら、そこの奥さんは業務用の大きな電気炊飯器を前に「18合です」と答えた。私は目を剥いた。言うに事欠いて18合はないだろう、そういう場合は「18合」と言うんだろう、と心の中で思いながら。だがいまでは昔の日本古来の度量衡の言い方まで変ってしまったらしい。そうは言っても下の業務用炊飯器は「3升炊き」となっているが。

 戦後割合すぐ古い度量衡が廃止されてメートル法が施行されたとき、米はそれまでの容量単位から重量単位に変った。それまでは米の基本単位は1俵つまり4斗であった。1斗は10升、1升は10合、1合は10勺であるから、計算上18合を18合というのは誤りではない。慣用上そう言わなかっただけだ。

 いまは昔の1俵に当るのが60キロの紙袋だ。昔はたわらの一俵を大の男が担ぎ上げることができなければ一人前と見なされなかった。いまではこの60キロ紙袋だろう。キミは60キロの米袋を担げるか?

 話変って、江戸時代の武士の俸給は米だった。一石というのは10斗のことであるから、俵で換算すると2俵半、なのだ。江戸時代でいうと、1万石以上を大名といい、自分の領地を直接治めていた。いわゆる封建制度だ。それ以下のたとえば幕府の高級役人はたとえば8千石などと高給を貰っていた。たとえば池波正太郎の「鬼平」に出てくる火付改方長官・長谷川平蔵は実在の人物であったが、俸給は400石だったといわれる。たった400石で当時の首都の江戸の治安を僅かな手勢で守っていたわけだ。いまの役人の数に比べてその少なさに驚くほかはない。先日東海道の島田宿の陣屋跡に行ってみた。そこの立札に「江戸時代島田宿の役人はなにがしで、俸給は150俵、とあった。東海道の要衝である大井川の東側の島田宿をわずか150俵の幕府の役人が守っていたわけだ。150俵を石数に換算すると、1俵は4斗だから600斗、1石は10斗だからこの人の俸給はわずか60石であった。当時は200石以下の俸給の武士は「お目見得以下」といい、将軍に直接会うことはできなかった。そんな下級武士が島田宿を守っていたのであった。

 するとこの北海道の大家族は、江戸時代であれば、18合×365日=6570合つまり6.6石余となり、夕飯だけでこうだから諸雑費入れてエイヤッと倍の14石に近いと仮定する。14石は約33俵であるから島田の宿役人の俸給はたった150俵といえども現在の北海道の大家族の5倍の収入があったことになる。当時の庶民の暮しとくらべればずっとゆとりがあるように思われるが、果たしてどうだったのだろうか。□(写真はネットから借用)

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