tokyokidの書評・論評・日記

tokyokid の書評・論評・日記などの記事を、主題に対する主観を明らかにしつつ、奥行きに富んだ内容のブログにしたい。

コラム・わたしのアメリカ観察 16

tokyokid2012-02-14

ケムに巻く話 (野球篇)

 前回の「ケムに巻く話」が好評だったので、その続編として野球篇をお届けしよう。

 その一・なぜ左投手を「サウスポー」と呼ぶか。「南の掌」とはなにか。答えは次の通り。球場のホームプレート(ホームベース)は、打者に西日が当らないように、東南を向いている。そこで左投手は常に南側から投げてくることになるので、サウスポーと呼ばれる。つまり南側の腕の掌を使う投手、ということだ。

 その二・グラウンドで、控え投手のたまり場を「ブルペン」と呼ぶのはなぜか。なんで「牛の柵」なのか。答えは次の通り。昔はナイトゲームがなかったので、試合中控え投手は日陰を求めて散らばって待機しているのが普通だった。あるとき大監督のコニー・マックが「お前ら控え投手はセンター後方にある大きな広告看板の前が日陰だから、あそこで待機しろ」と命令した。そこには「Bull Darban」の大きな広告板があり、日陰になっていた。大監督にとっては、控え投手をひとところに集めておくことに意味があり、そこにたまたま「牛」の文字がある広告があったので投手を牛に見立て、牛の柵に追い込んだ、といわれている。【コニー・マックは1862年生れ。野手(捕手)。生涯記録は19世紀中に723試合出場・打率2割4分5厘、引退後パイレーツで3年、アスレチックスでなんと50年、計53年間監督を務めた】

 その三・野球では、投手と捕手のコンビを「バッテリー」と呼ぶ。この組み合わせがなぜ「電池」なのか。答えは、バッテリーには「電池」のほかに「砲台」の意味がある。投手が投げるマウンドは盛り上がっているので、そこから捕手をめがけて大砲のように投球するからバッテリーと呼ばれるようになった。

 なお掲載の写真は書籍「史上最高の投手はだれか(佐山和夫著)潮出版社刊」の表紙。この投手のことは日本ではあまり知られていないので、これまた「ケムに巻く話」として面白いかも知れない。主人公・サチェル・ペイジは、いまはない黒人リーグの花形投手であったが、戦後大リーグ入りした人。この本は、公式記録によれば一九〇六年アラバマ州モービル生まれ、四二歳にして初めて大リーグのインディアンスに入り(一九四八)、大リーグ最後の登板は一九六五年、じつに五九歳のときアスレチックスに於いてであった、という伝説の大投手サチェル・ペイジに関するノンフィクション。蛇足ながらペイジ投手は一九七一年に黒人として初めて野球殿堂入りした。当時の投手は先発・中継ぎ・クローザーなどの分業制ではなかったのに! 
 大リーグ初の黒人選手は、戦後一九四七年に当時のブルックリン・ドジャースに加入したジャッキー・ロビンソン内野手であったが、当時の黒人リーグは、本書の主人公・ペイジ投手を含めていかに多士済済であったかがわかる。ちょっとしたタイミングのずれで、ジャッキー・ロビンソンやロイ・キャンパネラ以上の力量を持つといわれながら大リーグでプレーすることのなかった不運な黒人リーグのプレイヤーたち、たとえば強打者で鳴らしたジョッシュ・ギブソンや強打・俊足のクール・パパ・ベルそのほか多数の大リーグ級の黒人選手についても記述されている。アメリカには差別主義者もいるが、誰にでも公平に接することをモットーとする人たちもたくさんいる。黒人にも野球殿堂の門戸を開放しようとした動きについても、このノンフィクション作家は洩らさず記述している。その後殿堂は黒人選手にも開放されるようになった。これではアメリカン・ドリームを信ずるしかないではないか。
 サチェル・ペイジの大リーグに於ける公式記録は、合計6シーズン、179試合出場、そのうち26試合先発、28勝31敗、自責点3.29。1953年にはセントルイス・カージナルスに在籍中、オールスターに選ばれ、実際にゲームで起用された。これが42歳で大リーグ入りした投手の生涯記録である。
 野球の好きな読者には、一読をおすすめしたい本である。□