tokyokidの書評・論評・日記

tokyokid の書評・論評・日記などの記事を、主題に対する主観を明らかにしつつ、奥行きに富んだ内容のブログにしたい。

日記210620・すし談義

-日記210620・すし談義

f:id:tokyokid:20210620223504j:plain

 最近外国人観光客が増えていわゆる「和食」が話題に上ることが少なくない。戦後も戦後七十年以上経って、日本語も大分変質してきた。「すし」なる言葉の用法も変ってきた。私は文筆業ではないが、市井の一老人として、私どもの世代の用語「すし」の用法を整理しておこうかと思う。

 もともと「すし」はハレの日の食べ物であった。漢字で「鮨」と書けばプロ職人のすしやが握った(または作った)和食の一形態であった。これを「寿司」と書けば、家庭でお母さんが作る、つまり素人が作る酢飯を使った和食を指した。ところがこの用法は長い間のうちに混用され、プロの鮨屋であっても「××寿司」などと表記されることも多くなり、いまでは「寿司」はプロでもアマでも使う用語となった。ただし両者に共通な現前たる区別があり、それは飯に酢飯を用いることである。もっとも最近は、子供が酢飯を好まないせいか、酢の味がだいぶ薄まってきたのは残念なことである。しっかりした酢飯を作る鮨屋の親父が少なくなった。

 すしの起源は、東南アジアの「なれずし」からきたものと解説されることが多いが、いまとなっては鮨の代表作である「江戸前の握りずし」は江戸時代のいわばプロのすしやの創作であるといわれる。これが代表的な和食となった。これが「鮨」である。

 一方形態でいえば「海苔巻き」「散らし寿司」「交ぜ御飯」など主として家庭の主婦が作る「早寿司」も発達した。これらは「握りずし」でないところが特徴である。

 昨今は鮨屋も海外展開を図るので、欧米に日本の本格鮨屋があることもめずらしくなくなった。なかには外国人経営の鮨屋も多数混じるのだが、外国人はこれらのすしの区分など眼中にないから、立派な鮨屋の店構えをしていても、握りのみならず海苔巻きや太巻きを客に供する。こうして今風の鮨屋も客も時世に従って変容して今の形になっている。われわれ老人が嘆くゆえんである。「サビ抜きすし」「酢抜けすし」「レタス巻き」「牛肉握り」などはひらにご容赦願いたい。□(写真はネットから借用)

f:id:tokyokid:20210620223525j:plain

f:id:tokyokid:20210620223548j:plain

f:id:tokyokid:20210620223622j:plain

f:id:tokyokid:20210620223643j:plain


 

日記210610・野球の唄

日記210610・野球の唄

f:id:tokyokid:20210610203549j:plain

 本来ならいまごろはプロ野球オールスターゲーム、中盤の盛り上がりどころだ。だが新型コロナウイルスは多くの庶民の楽しみを奪ってしまった。

 せめて野球本場のアメリカの、マイナーリーグ球場で観衆総立ちで、大人も子供も総立ちで唄い踊る「チキンダンス」と、本場の大リーグの試合で、これまた観衆総立ちで唄われる「take me out to ball game」をお聞かせしよう。

 

https://www.youtube.com/watch?v=SxuXbuzwtjA

 

https://www.youtube.com/watch?v=8RPIwqkTGgY

 

https://www.youtube.com/watch?v=kKtT2nHudYQ

 

□(動画と写真はネットから借用)

f:id:tokyokid:20210610203614j:plain

f:id:tokyokid:20210610203630j:plain

f:id:tokyokid:20210610203652j:plain

 

日記210601・八田與一と野口遵

日記210601八田與一と野口遵

f:id:tokyokid:20210601174317j:plain

 戦後80年近く経って、ようやく日本でも戦前や戦中の偉人の事績が公然と語られるようになった。とてもいいことだ。石川県金沢市は、いまは外国となってしまったかつての日本領の台湾と朝鮮に当時世界有数の人工ダムを築いた二人の偉人を輩出した。八田與一と野口遵である。

 八田與一は今に残る台湾最大の人工ダム「烏山頭ダム」の生みの親だ。1886(明治19)年生れ、1942(昭和17)年没。夫人は「外代樹」、與一が戦死したと聞くや愛児とともに夫の作った烏山頭ダムに身を投じて亡くなった。司馬遼太郎の「街道をゆく・台湾紀行」に詳しい。

 野口遵は現在の北朝鮮満州の国境沿いを流れる鴨緑江に当時世界でも有数の大ダム群・水豊ダムを建設した。壮大な事業家肌の人であったようで、現在に残る上場企業・チッソ旭化成積水ハウス信越化学などを残したといわれる。1873(明治6)年生まれ、1944(昭和19)年没。この人の事績はこれらの会社の関係者など「知る人ぞ知る」ということになってしまう。戦後の後述する事情があるからだ。ふたりのために特に申し添えておくが、両方のダム共に、建設後100年近く経った今でも、発電や灌漑など、立派に初期の目的を果たして稼働中であるということだ。日本人として、これは誇っていいことだろう。問題は残念ながら、恩を恩として100年間忘れない親日国として知られる台湾と、平和な生活を営んでいる他国民を拉致して恥じない敵対国として知られる北朝鮮国に物理的に存在しているかどうか、ということだけなのだ。

 

https://www.youtube.com/watch?v=OrKz2rKUKEk

 

https://www.youtube.com/watch?v=Y0wjkcSDIIs

 

□(動画と写真はネットから借用)

f:id:tokyokid:20210601174357j:plain

f:id:tokyokid:20210601174419j:plain

f:id:tokyokid:20210601174443p:plain

f:id:tokyokid:20210601174505j:plain

f:id:tokyokid:20210601174529j:plain

 

日記210520・家庭菜園

日記210520・家庭菜園

f:id:tokyokid:20210520185723j:plain

 孫が庭で野菜を植えてみる、と言ってきた。なにを植えるのか訊いてみたら自分の好きなメロンを植えるという。そんな専業農家でもむずかしい植物を植えても芽を出すかどうかも分からないから割合簡単なトウモロコシを植えることを奨めておいた。その後どうなったか。

 昔戦時中、小3から小5まで、埼玉の奥の祖父の農家に疎開した。わずか3年足らずの間だったが、都会のもやしみたいな小学生だった私は、この機会がなければ一生経験しなかったであろう貴重な経験をした。山羊、鶏、兎などの飼育。それらを狙ってくる狐や猫や蛇との格闘、そして麦踏みやトマトやきうりや茄子、じゃが芋や薩摩芋などの栽培。近所の小川や沼でのハヤや鮒などの釣り。たまには背が黒く腹の赤いグロテスクないもりも釣れてきた。祖父も疎開して一町の広い畑を大きな旧庄屋の屋敷ごと買い、趣味の農業をやっていたが、陸稲はあっても水稲だけはなかった。だから畠に関することはひととおり見ていたように思う。

 疎開先での珍しい経験はいくらもあるのだが、それらの話は別の機会に譲るとして、ここではひとつだけ。

 じゃが芋とトマトは親戚筋の植物と見えて、トマトにじゃが芋を接ぎ木すると上にトマト、下にじゃが芋が出来て収穫ができる。もっとも両方とも実は大きくならないし美味でもない。でもこのことを知っている人はまずいない。ということで、今日はここまで。

□(写真はネットから借用)

f:id:tokyokid:20210520185812j:plain

f:id:tokyokid:20210520185929j:plain

 

日記210510・お富さん

日記210510・お富さん

f:id:tokyokid:20210510205402j:plain

 私どもが高校に入学したとき、この歌が流行った。ちょうど同じクラスに「富子さん」という人が居て、みんなから「お富さん」と呼ばれていた。よく笑う明るい子で、女の子にもかかわらず野球が好きで、驚いたことに女の子ながら野球のスコアブックを間違いなく完全に付けることができた。

 卒業後会う機会がなかったが、五年ほど前、七十歳を過ぎてからいまは彼女が住む関西に行く用事があり、神戸の市民球場の特別席に誘ってオリックス戦を観た。外見こそ立派なお婆さんになっていたが、よく笑い転げるところは高校生のときのままで、スコアも立派に付けることができた。高校生の昔に戻って、観戦することができた。そのときはすぐに昔に戻れたのだが、それから以降は会う機会がない。会うなら早くせねば。

 

https://www.youtube.com/watch?v=4YMxUQ15JY8

 

□(動画と写真はネットから借用)

f:id:tokyokid:20210510205423j:plain

f:id:tokyokid:20210510205442j:plain

 

日記210501・天災は忘れた頃にやってくる

日記210501・天災は忘れた頃にやってくる

f:id:tokyokid:20210501195020j:plain

 

https://www.youtube.com/watch?v=jbvBsgoEAe0

 

天災は忘れた頃にやってくる(てんさいはわすれたころにやってくる)とは、自然災害はその被害を忘れたときに再び起こるものだという戒め[1]。「天災は忘れられたる頃来る[2]」、「天災は忘れた頃来る[3]」、「天災は忘れられた頃に来る[4]」などとも記述される。また、上記の「天災」の箇所は「災害」と書かれることもある[5]

科学者で随筆家の寺田寅彦の言葉とされることが多い[6]。しかし、寅彦が発表した文章の中にはこれらの言葉は見つかっていない。

 これが誰の言葉だろうと、真実は真実だ。災害はいずれ自分の身にも降りかかってくるとすれば、人それぞれに、相応にその時の準備をしておかねばなるまい。

 写真は東日本大震災のときのもの。□(動画と写真はネットから借用)

f:id:tokyokid:20210501195043j:plain

f:id:tokyokid:20210501195109j:plain

 

日記210420・投資の話

日記210420・投資の話

f:id:tokyokid:20210420185415j:plain

 最近聞き込んだところによると、近々高校で「投資」の授業が始まるという。いままで日本の教育では「お金とはなにか」の話をしてこなかったから、これはいいことだ。資本主義でかつ自由主義を標榜する我が国に於いていままでお金の授業をしなかったのは役所の怠慢であったといえる。

 お金の話を構成する一部分だけである「投資」をとりあげてみても、これからはたとえば年金のコースをどれに決めるか、自分で選択しなければならない。これはアメリカではとっくに「401K」として実行されていることで、最初にこの選択を誤ると、老後の年金支給額にかなりの差が出てくる。極端な場合、掛金総額を支給されない場合だって多分に考え得るのだ。

 こうしてみると、高校生に投資の話を教えておくことはむしろ必然であることがわかる。文科省もたまには国民にとって必要な施策を実行するのだなあ。□(写真はネットから借用)

f:id:tokyokid:20210420185505j:plain

f:id:tokyokid:20210420185529j:plain