tokyokidの書評・論評・日記

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日記160122・映画・母と暮せば

tokyokid2016-01-22

日記160122・映画・母と暮せば
 ご存じ、吉永小百合の映画である。脚本は山田洋次井上ひさしの著作にヒントを得て書き下ろしたものらしい。クレジットに井上ひさしの名前があった。
 これは架空の物語である。長崎の原爆で吹き飛ばされて死んだ(というよりむしろ「蒸発」してしまった)医師志望の学生(二宮和也)が、亡霊となって母(吉永小百合)の前に出てくる、という「おとぎ話」である。それに学生の許婚(いいなづけ・この語はもう死語と見えてPC入力を転換しただけでは出てこない)、許婚の職場である小学校に復員してきた片脚のない男性教師、母に想いを寄せる復員ヤミ屋、と当時の日本の舞台廻しの道具立ては揃って、「やさしくて、悲しい」というパンフレットのコピー通りに映画は進む。
 だが、広島・長崎の原爆を、七十年経ってみればこうもたやすく日本人は架空の世界、と言って悪ければ追憶の世界に閉じ込めてしまっていいものだろうか。人類初の被爆者を大量に出した怒りや悲しみを忘れていいものか。これが中国や韓国ならば、加害者の米国を呪ってやまないことだろう。ちょうど(ありもしない)「南京の大虐殺」や(アウシュビッツとは比べものにもならない)「従軍慰安婦」の問題で、莫大な援助を日本からもらいながら、あることないことを取り混ぜ、当事国以外の国にも宣伝を広めて日本をおとしめようとする、そういう国々もあるというのに、日本人はそうたやすく原爆を追憶の彼方に追いやっていいものだろうか。その思いだけが残った。写真は映画のパンフレット表面。