tokyokidの書評・論評・日記

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日記151206・US Cars 40&50、番外・日本車篇

tokyokid2015-12-06

くるま151206・US Cars 40&50, 番外・日本車篇
 番外でこの時期の日本車の状況を見てみよう。いままでと同様、乗用車についてのみ論じる。昭和15(1940)年から同24(1949)年までの1940年代の10年間は、昭和20(1945)年の第二次世界大戦での日本の敗戦をはさんで、戦時色と戦後の工業生産設備のほとんどが全滅の憂目を見た実情を踏まえて、乗用車の生産など夢のまた夢であった。でも昭和25(1950)年以降の1950年代には、日本の工業も順次戦前のレベルを取り戻しつつあった時代でもあった。その中で、外資との提携で国産を果たしたヒルマン(いすず)、ルノー(日野)、オースチン(日産)の3車と取り上げよう。この提携劇のなかにトヨタがないのは、同社が将来にわたって国産技術による独自開発を目指す決定をしたからに他ならない。またこの時期ホンダはまだ二輪車の製造に血道を上げており、四輪車に進出するのは後の話であった。
 まずは日野とルノー日野自動車は小型車のルノー4CVを1953年からノックダウンで始め、1958年からは完全国産化を果たして1963年まで販売した。このくるまは RR で750cc エンジンを積み、当時としては出色のモノコックボディ、コイル独立懸架、ラック&ピニオンステアリング、600kg弱の車重で時速100キロを出した。当時タクシーで走っていた愛らしい小型のこのくるまを覚えておられる方は多かろう。このくるまをベースとして次に日野が独自に開発した後継車が、日野コンテッサであった。
 次はいすずとヒルマン。いすず自動車は英国のヒルマンミンクスの初代を1953年からノックダウンで始め、1957年からは本国でモデルチェンジを果たした二代目を完全国産化した。初代は FR で直列4気筒1300ccのエンジンを積み、車重は約950kgであった。写真は緑色の初代と赤白2色の二代目。このくるまをベースとして、いすずは1963年からいすずベレットを発売した。
 最後は日産とオースチン。日産は同じく英国のオースチンと提携して1955年からノックダウンで始め、1958年には完全国産化を果たした。特筆すべきは、日産は完全国産化に際してもともとの英国仕様車を日本の実情に合うよう、各所で設計変更を施したことである。キメ細かく実情に合わせた商品を開発する日本独特の姿勢は、以後日本の製造業のお家芸として輸出ドライブをかける際に威力を発揮した。A50・ケンブリッジは直4・1500cc のエンジンを積み、FR でセミモノコック・ボディ、950kg の堂々たるくるまで、当時トヨタのクラウンと並び称された大型車かつ高級車であった。日産はこのくるまで乗用車製造のノウハウをつかみ、後継のブルーバード310(1959年発売)やセドリック30(1960年発売)につなげてゆく。とくにブルーバードの1200ccエンジンは、A50・ケンブリッジエンジンのストロークだけを縮め、生産ラインの大幅な改造を回避した傑作で、のちの日本のモノ造りをリードする生産技術であったといわれる。
 そのころ国産独自の技術でつくられていたくるまとして「ダットサン110」と「トヨペット・コロナ」の写真を、最初と最後に添えておく。ちなみにこの頃、ホンダはまだ四輪車に進出しておらず、S500,S600,S800のスポーツカーを少量発売したのが1963年から、量産のN360を発売したのが1967年からであった。また英国で世紀の傑作小型車といわれたアレック・イシゴニス設計のオースチン・ミニが発売されたのは1959年のことであった。写真はダットサンルノー(2台)、ヒルマン(初代と二代目)、オースチンA50(2台)、トヨペット・コロナ。写真はすべてネットから借用。