tokyokidの書評・論評・日記

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日記150127・ある日のおやつ

tokyokid2015-01-27

 人間齢をとると、食べ物だけが唯一の楽しみになる。体力が落ちてくると、そうそう外を出歩く気力もわかず、趣味にしても長時間それにかかづらわっていることもできない。したがって「おやつ」は楽しみのひとつだ。言うまでもないことだが「おやつ」の語源は、江戸の旧暦時代の時刻からきている。「おやつ」は「お八つ」で、午後2時頃を指したものだ。
 私のある日のおやつは、写真でご覧のような、幼児向けのビスケットや、羊羹とも団子ともつかないような代物だった。年寄に午後のお茶と茶菓子を出すなら、むかしの和菓子屋であればどこでも売っていた「豆餅」や「すあま」を出してもらいたいものだが、いまはもう売っているところがめっきりと少なくなった。
 最近はなんでも、新型、新型といって新しい商品を繰り出さないと商売にならないらしい。それもすばらしい新商品ならいざ知らず、創作料理のたぐいはかつて先人がなんらかの負の理由でうまくいかず作らなかったものを、いまは麗々しくけっこうな値段をつけて客に出す有様だ。もちろんそんなものは食いたくない。
 私のようなへそ曲がりの老人は、昔ながらの菓子をお茶受けに出してもらいたい。前掲の豆餅やすあまのほかにだって、団子、まんじゅう、煎餅、大福、きんとん、葛、どら焼、草餅、羊羹、カステラ、ビスケット、鯛焼、焼芋、焼栗、おはぎ、裂きイカ、ピーナッツ、おせんにキャラメル・・・などなど、古くからあるうまいものはいくらでもあるではないか。まんじゅうだって、最近のは一口まんじゅうのような小ぶりのものだけしか目につかないが、昔の葬式饅頭や今でもある中華まんのような大きいまんじゅう、それも厚皮のものがいいよ。いまさら薄皮で中国産かも知れない甘いだけの餡がたっぷり入ったまんじゅうなんか食いたくはない。まんじゅうこわい。わたしが小学校低学年(当時は国民学校)であった頃の天長節には、学校では箱に入った大きな紅白まんじゅうを生徒に配ったものだった。あれがいい。おやつやお茶受けというなら、白菜の漬物だって胡瓜の糠漬けだっていいわけだ。アメリカ式ならニンジンやセロリに塩や味噌をつけたものだっていいだろう。うまければ沢庵でも梅干でも金山寺味噌でもいい。言えばもりそば一杯だっていい。新しいものなんか要らないから、古くてうまいものを食わせてよ。