tokyokidの書評・論評・日記

tokyokid の書評・論評・日記などの記事を、主題に対する主観を明らかにしつつ、奥行きに富んだ内容のブログにしたい。

日記121001・紀尾井町界隈

tokyokid2012-10-01

日記120922・紀尾井町界隈

 この夏は暑かった。この夏も、というべきだろう。
 その暑い夏のさなかに、JR四ツ谷駅の麹町口前の交差点に立って、千代田区紀尾井町の方角を撮ったのがこの写真である。このあたりは、むかし江戸城の外堀の内側で、現に写真の右側の濃い緑は真田堀の土手であって、ご覧のとおり樹木が茂っている。その下の堀は埋め立てられて、いまは上智大学の運動場になっている。平成のいまだったら皇居の堀の埋め立てなど許可されるわけもないが、昭和の敗戦のどさくさにこういうことも起こったのだろう。一瞬ではあるがこの運動場は、JR中央線や地下鉄丸ノ内線の車両の中からでも見ることができるので、ご存じの方も多かろう。紀尾井町の名は、江戸時代に紀州尾州、井伊各家の屋敷があったことからこの名がついた。つまりここは「泣く子も黙る」といわれた大大名の屋敷跡の街なのである。このような都心の超一等地を、明治のご一新のときに自派の大学用地に確保したキリスト教カトリック・イエズス派は、日本の歴史に大きな影響を与えたといえるだろう。
 写真右側の土手沿いに赤坂見附の方角にだらだらと坂を下りていくと、ホテル・ニューオータニの前に出る。一九六四(昭和三九)年の東京オリンピックに間に合うよう作られたこのホテルも、いまでは日本を代表する大ホテルになった。筆者が学生のころ、おおきな木で作られた皇居の桜田門を一回り小さくしたような立派な正門があったが、あれはどこに行ってしまったのだろうか。
 写真の大通りを右に行くと新宿で甲州街道、青梅街道に通じており、左にいくと半蔵門に突き当る。江戸時代からの交通の要衝である。徳川家はこの地に御三家といわれる自分の親戚筋の屋敷を配して、まさかのときの防波堤にしたのだろう。ここは兵どもが夢の跡、なのだ。
★照る夏や昭和も遠くなりにけり(謝楽斎)