tokyokidの書評・論評・日記

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論評・EWJ「四字熟語」コラム・はじめに、悪婦破家

tokyokid2011-04-18

(一)「はじめに・悪婦破家」
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 日本語は面白い。
 26文字しかない英語と違って、50字のひらがな、50字のカタカナ、それに無数の漢字を使って文章を作る日本語は理屈抜きに面白い。
 その日本語のなかでも、四字熟語は日常しばしば引用され、文章に立体感を与える。しかし四字熟語の始まりとも称される三体千字文が習字の教科書としての意味しかもたなくなったいま、一昔前までは常用された四字熟語も現代人にとっては意味不明の単なる漢字の羅列となってしまったのかも知れない。でも本来四字熟語は、日本人の考え方の基本を表現する単語として、無視できないものなのだ。
 よく使われるものを除いて、まだ多少なりとも目にする機会がありなおかつ使いでのありそうな四字熟語を五十音順にひとつづつ選び出して、それにコメントをつけてみようと思う。最初に四字熟語とその読み、その意味するところ、そして現代に生きるわれわれの生活実感とどう関連しているかをまとめてみた。また類語・反語などにも目配りした。本来漢字は表意文字で、それぞれの漢字が意味を持っている。現代人が会話の音に頼る頻度が増え、さらに戦後の交ぜ書きが普通になってしまった結果、漢字がかなに置き換えられて、もともと使われていた漢字の意味が表に出ないようになってしまったことが、四字熟語の今日の衰退を招いてしまった原因ではないかと考える。でも捨て去るには惜しい。
 四字熟語は日本語の言葉の海の一部にしか過ぎないが、長い歴史のうちに蓄積された先人の智恵が結晶しているのも事実だ。当用漢字以外の漢字がたくさん出てくるのも事実だが、それらの漢字を使いこなせればあなたの文章は格段に説得力を増すだろう。読み覚えた四字熟語はさっそく有効利用してみることをおすすめする。
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「悪婦破家」(あくふはか)
 悪い妻は夫の一生を台無しにして家庭を破壊する、ということ。出典は「易緯」。
 悪い妻は家をこわす。言ってみればソクラテスの妻のことか。戦後強くなったのは靴下と女性、と言われてから、もう半世紀以上経ってしまった。いまはそれが常態で、年上の女房も格段に増えた。社会をリードするのは男という社会通念は失われつつあり、戦後の男女平等を経ていまの女性上位の世の中に切り換わった、と認識すべきなのだろう。間違って女性の悪口など言おうものなら、選挙に落選の憂き目を見るのはもちろんのこと、家内安全も覚束ない。「悪婦破家」は「夫唱婦随」「女子と小人は養い難し」などと並んで、現在では完全に死語というほかはない。なにしろ「家」という概念が消滅して核家族の世の中になってしまったのだから、もう男の出る幕はない、ということだろう。核家族の世の中、こわすべき家はもうない。すべからく配偶者の夫が忍従すればそれで万事はまるく納まる。「男は黙って・・・・・」の時代を経て、男は黙って忍の一字の世の中に変ってしまった、のかも知れない。この傾向に逆らって、家庭内で口やかましく時には暴力を振るって男の権威を保とうと努力する夫は、女性によって手厳しく爪はじきの対象となり、成田離婚といわれる結婚直後の離婚や、熟年離婚といわれる勤務先を定年で退職して多額の退職金を手にした途端の離婚によって、家庭から抹殺される場合が多い。諸君、万一そうなったら貴男の人生がみじめになることは間違いないですぞ。
 で、たとえ「悪婦」であっても、初めから悪婦であったわけではあるまい。世の中知らずの花も羞らう美少女が結婚して後世悪婦と呼ばれるケースは枚挙にいとまがない。「悪夫」がいて、結婚後鍛えられた妻が悪婦に変身したという例もまた枚挙にいとまがないであろう。したがって現在は「悪婦破家」というケースは存在せず、言ってみれば「変身させられた元美少女」がいるだけなのかも知れない。これがひとつの「悪婦破家」の典型的現代解釈なのである。でもその場合、中学生や小学生で援助交際をして、世の中の少なくとも裏を知り尽くした美少女が結婚して悪婦となり、離婚に追い込まれた場合はなんと言えばいいのか。悪婦破家には違いないが、未成年で援助交際の味を覚えた少女を配偶者として迎える男も「悪男」であるかも知れないから、このケースを「悪婦」には関係のない単なるありふれた離婚の一件として認識すべきなのか。これもひとつの現代解釈であろう。
 この「悪婦破家」という四字熟語からわれわれが学ぶべき教訓は、日本からはもう「家」という概念は消失してしまったということだ。先祖伝来とか、親から子へ、という概念も消えてしまった。いまでは核家族の時代、世代でいえば二世代、せいぜい三世代限りのことで、それ以前や以後の世代にまたがる概念は実用上必要がなくなった、ということだ。「家」がなくなった以上、「家名」という概念も当然消失した。したがって「家名を保つ」とか「家名を立てる」という概念も消えてなくなった。もちろん「立派なご先祖さまに対して申し訳がない」という概念も消えたことだろう。家、先祖代々、という概念は何世代かにまたがる概念だから、比較的長期にわたる。それに対して個人は一世代のことであるから、時間的な概念でいえば比較的短期のことだろう。で、個人にとってよければそれでよしとする風潮は、現代では至極もっともな考えであるが、その意味するところは世の中はますます忙しくなって、人生だろうと仕事だろうと、短い時間のなかで結果を求める、忙しい時代になったということだろう。日本はますますアメリカに似てきたというわけだ。□