tokyokidの書評・論評・日記

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論評・くるま・くるまの思い出

tokyokid2010-01-19

「くるま」の思い出
 評者が生まれた頃は、ガソリン機関が開発されてから半世紀くらい経ったころだった。生まれたことは生まれたが、育つかどうかわからない、と母親はいつも周囲から言われていたという。自分でも学齢前は病気ばかりしていたのを覚えている。
 だから自動車に関する最初の思い出といえば、ハイヤーを呼んで、住んでいた家から当時の省線で一駅離れたところにあったかかりつけの医家に運ばれる途中、気持が悪いから後ろのシートに寝かせられて見ている、窓の外を通り過ぎていく街路樹と空の景色だった。当時タクシーなどは普及しておらず、自動車を頼むのはハイヤーと決まっていた。そのハイヤーは、家からだらだらと下がった坂の途中にあるしもたやを改造した車庫からでてきた。いまにして思えば、ステップ付きの黒塗りのフォードだったような気がする。路上にはまだまだ自動車よりも馬車や牛車のほうが多かったときのことだ。もちろん人が曳く人力車やリヤカーはいくらでも走っていた時代のことである。
 その次は幼児向けの絵本だ。当時はようやく欧州などで開催される自動車レースが日本でも報道されるようになって、ついにはこどもの絵本にも取り上げられるようになった。葉巻型のレーシング・カーが、砂埃を蹴立てて走っているところの絵であった。さらにその次は、日本が戦争に負けて、疎開先から東京の自宅に帰ってきた(うちは幸いに戦災を免れた)昭和二十一年の二月に、家の先の大きな道路を走るバスのあとを追って走って、排気ガスの匂いを嗅いで喜んでいた頃のことである。東京駅から品川・大井町駅経由池上行きの大型バスで、いまの40フィートのコンテナ・トラックのように運転台と客車がべつべつで、走るときは連結していたと思う。戦後の日本になぜあんなバスがあったのだろうか。当時はまきとボイラーを、後部トランクをつぶして作ったスペースに装着した、木炭車といわれる自動車の全盛時代だったが、あの大きなバスがなぜあったのだろうか。
 戦後の自動車といえば、進駐軍すなわち米軍のくるまが主であった。軍用にはジープと、家族用にはシボレーやフォードなど、アメリカもようやく戦後の混乱期から脱し始めていたころのことで、これらの自家用車で生まれて始めて黒以外の色の自動車をみた(軍用車は別)。中学のときの通学路は、第一京浜国道であったから、自動車好きの同級生と、向こうからくる自動車の形式と製造年を当てっこして自動車の種別を覚えていったものだ。アメリカ車は、一九四九年型から、どちらが前か後ろかわからない新型に切り替った。この年のフォードやスチュードベーカーが有名である。
 自分で生まれて初めて自動車を動かしたのは学生のときで、このときはもちろんまだ運転免許を持っていなかった。青山・根津美術館のそばの豪邸が米軍に接収されていて、路上に駐車してある一九五二年型のオールズモビルを洗車に通っていたころのことだ。洗車にはバケツで水を運ばなくてはならず、家から離れたところに駐車してあった当時はまだ珍しいオートマチック車を、見よう見まねで家の前まで、それもバックで持ってきたのが初体験であった。当時はバケツの水3杯で洗車を終えた。水を汲んで往復する時間が惜しかったのである。このときの学生アルバイトの自動車洗車では、水洗い一台一五〇円、手で固形ワックスをかけると五百円もらえた。黒の自動車の洗車がいちばん大変だった。汚れやワックスむらが目立つからである。当時水洗いには一時間、ワックスをかけても三時間くらいで作業を終った。中卒の初任給が六千円くらいのときの話である。□
(写真は 1938 Ford Vairogs V8)