tokyokidの書評・論評・日記

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書評・Tokyo City Map

tokyokid2008-06-05

書評・Tokyo City Map(進駐軍総司令部エンジニア部指導による英語版)

【あらすじ】
 A全版のこの地図は、中付によると、1947年(昭22)撮影の航空地図に基いて、1948年(昭23)作成された地図を、さらに1955年(昭30)改訂したもの、とある。当時の進駐軍(米軍)向けの英語版で、縮尺は2万5千分の1、だいたい山手線の外周辺部分までを含むものと思えばいい。地図は墨・赤・青の三色刷りで、面白いのは、当時の進駐軍兵士にもわかるように、目抜き通りに「Ave. A」「10th St.」などの英語名がつけられていることである。Ave. と St. のつけ方は、皇居を中心にみて、放射状に Ave.、らせん状に St. を原則にしているようだが、アメリカのニューヨークのような都市部と違って、東京は四角に区画整理ができているわけではないから、たとえば日比谷公園とお堀の間を晴海通りが走っているがこの道を「1st  St.」、これが日比谷の交差点を越えて銀座の四丁目に向かうといつしか「Ave. Z」に変わる、という具合だ。評者などの昔者は、当時至るところの東京付近の道路標識がこれらの表示、すなわち「Ave. Z」などと掲示してあったのを思い出す。
【読みどころ】
 この地図は進駐軍向けであるから、当時の軍の施設が事細かに記してある。とくに丸の内のビル街の地図が別刷りになっており、マッカーサー総司令官のいた第一生命ビルや、オールド海上ビル(旧東京海上ビル)、さらに米軍将校や軍属の住居になっていた「ワシントン・ハイツ(旧代々木錬兵場)」「グラント・ハイツ(現在の練馬区・川越街道沿いの陸上自衛隊駐屯地)」「パレス・ハイツ(現在の千代田区最高裁判所から国立劇場にかけての三宅坂付近)」「パーシング・ハイツ(現在の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地)」など、いまは還暦過ぎの年配の人には懐かしかろう。考えてみれば、米軍占領時代の日本で、基地なり住宅地なりが、日本人のテロによって攻撃されたということは聞いたことがなかったから、こんどのイラク戦争で、ブッシュ大統領が成功例として占領時代の日本のケースを引合いに出す心情はわからないでもないが、昔からお上にさからったことのない日本人と、イスラム教にせよユダヤ教にせよキリスト教にせよ、唯一神を信じて、他の神を認めない(お互いに排他的である)イラク人とアメリカ人の間を、八百万の神を信じる仏教徒の日本人と同列に扱うこと自体が、ひどく荒唐無稽に思える。
【ひとこと】
 前項の進駐軍用集団住宅地のほかに、当時米軍は、都心部にあった空襲に焼け残った個人所有の豪邸をいくつも接収して、軍の高級幹部用の住宅に使っていた。私が今でも覚えているのは、青山・表参道を根津美術館のほうにちょっと入ったところにあった家であるが、ここでアルバイトしていた当時学生の評者は、路上に駐車してあった高級将校の自家用車・1953年型・オールズモビルだったが、これを動かしてみたのが、生れて初めての自動車の運転経験であった。黒のオートマチック、当時はまだ国産乗用車などないに等しい頃で、いまにして思えば、よくも事故も起こさず、公道を数十メートルの短距離とはいえ、下り坂に駐車してあるくるまをバックで坂の上に持ち上げて洗車に都合のいい場所まで移動したものだと、自分ながら感心するほかはない。だが自慢のヒノキの床柱にペンキを塗りたくられて、畳もなにも構わず土足でづかづかと上がられて(アメリカ人にすれば当り前だろうが)、相手が進駐軍だけに文句のつけようもなく、泣き寝入りしていた貸主があちこちにいた。
【それはさておき】
 評者は当時苦学生であったから、高校三年生の夏休みから、ワシントン・ハイツの将校用住宅地で、ハウスボーイのアルバイトをした。一日八時間家の掃除をしたりガラスを磨いたり、子守をしたり芝生を刈ったりして働くと、当時のカネで日給五百円もらえた。評者が社会人になった昭和三四年(一九五九)でも、大卒の初任給が一万二千円であったから、このアルバイトはまことに効率のいい「バイト」であった。しかもヒルメシ付き、当時の東京ではぼつぼつ蕎麦屋が(食券なしでも)来客に食わせるようになった頃で、苦学生にとっては「もり・かけ15円」の蕎麦代もままならなかったから、アルバイト先で出される「ハム・アンド・エッグのサンドイッチに冷たいミルク」の昼食は、苦学生を感激させるに充分であった。その上気を利かせてくれる家では、ラッキー・ストライクやキャメルなどのタバコをひと箱添えてくれることもあった。これがきっかけで高校生ながら喫煙を覚えたわけだが、生まれつき気管支が弱くてたばこを吸うと咳がでるので、やがて禁煙して、そのまま現在に至っている。もらってきたメリケン・タバコは、家中で唯一喫煙を楽しんでいた母親に渡して、ささやかながらの親孝行であった。ワシントン・ハイツのお陰で、なんとか卒業に漕ぎ付けることができた。□