tokyokidの書評・論評・日記

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書評・ガリヴァ旅行記

tokyokid2007-07-22

書評・★ガリヴァ旅行記(スウィフト著・中野好夫訳)新潮文庫

【あらすじ】
 最初の第一篇、第二篇がむしろ子ども向けのお伽話として有名なこの本は、もともと歴とした大人向けの、それもかなり知的ゲームを楽しむことのできる高級な本である。全体は次の四篇からなる。
1. リリバット(小人国)渡航
2. ブロブディンナグ(大人国)渡航
3. ラビュク、バルニバービ、ラグナグ、グラブダドリッブ及び日本渡航
4. フウイヌム国渡航
 以上の本文四篇に加え、「刊行者の言葉」と称するまえがき、訳者による「註」、著者による「追註」そして訳者による「解説」があとがきを務める構成となっている。著者がこの作品を初めて出版したのは一七三五年(享保二十年)で、この年は日本では江戸時代・第八代将軍・徳川吉宗の治世がようやく後半に差し掛かるときに当る。また本書評の底本には、昭和二十六年初版の新潮文庫本の昭和三十二年出版・第十一刷を用いた。著者のジョナサン・スウィフトアイルランド・ダブリン生れの作家として知られる。一六六七年生れ、一七四五年没。政治に多くの関心があったようで、この作品はイギリス風刺文学の最高峰として評価される。ほかの作品としては、十四歳年下の恋人エスター・ジョンソン(作品中ではステラ)との書簡集「ステラへの消息」が有名。晩年は発狂し、廃人同様の生活の果てに死亡した、とある(コンサイス外国人名事典・三省堂・第三版)。
【読みどころ】
 第一篇と第二篇は、どなたも(多分童話として)ご存じの物語である。第三篇には、ほかの架空の国(もちろん原形を髣髴させる国はそこここに実在するわけだが)に交じって、唯一実在の国・日本が登場する。原著が出版された頃は、江戸時代もかなり進んだ十八世紀の一七三五年であるから、当時欧州や英国にも、陶器や浮世絵などを通じて、かなり日本のことが知れ渡っていたものと思われるが、それでもまだまだ一般の欧州人には「お伽話の国」としてくらいにしか認識されていなかったのであろう。日本のことは第三篇・第十一章で語られるが、文庫本全体の頁数が三七三頁あるけっこう大冊の本のうち、たった五頁にも満たない短さである。第四篇は、政治好きの著者らしく、これぞ風刺と批評と当てこすりに満ちた大人の文学、と評するに足る出来である。この第四篇には、人間をあてこすった野蛮な動物「奇獣」ヤフーと、なりは馬のようだが「知性に溢れる」フウイヌムと、著者が物語る著者の国・英国との比喩や風刺が、さすが皮肉屋の多い英国人(アイルランド人というべきであろうが)の著者の見方をもとに、なんとも考えさせられる展開を見せる部分である。
【ひとこと】
 長い人類の歴史のなかでも、欧州史は文化の蓄積の多さ、文明の進歩の速さにおいて世界史に特筆されるべき歴史である。英国は、スウィフトの時代はもちろん現代でも欧州大陸諸国たとえばフランス、ドイツ、スペイン、イタリア、さらにギリシャや東欧諸国といったいわゆるヨーロッパ諸国とは一線を画して考える国民が多い。その証拠は、現在でも英国がいまだにEU(ヨーロッパ共同体)のメンバーでないことでも知れる。つまり英国人は「オレたちは欧州ではない」という意識をいまでも強烈に保持しているのである。この英国独特の国家意識と、大小とりまぜ多くの国が国境を接する欧州では、古今戦争の絶え間がなかった。戦争は必然的に破壊と復興をもたらす。それに忘れてならないことは、戦争をするにせよしないにせよ、外交が国家を保持する最大の手段であり、英国を含む欧州諸国は、人類の歴史始まって以来、このことに習熟してきた。だから英国を含め欧州諸国は「外交辞令」の達人揃いなのである。つまり言葉の持つ重みが、長い期間にわたり自己の存在を左右してきたという意味で、日本とは大いに違った環境下に育ってきたのであり、現在の言葉の文化を育んできたのである。その点で、東洋の島国である日本とは、同じ島国であっても、英国は大いに異なる環境下にあったし、いまでもあるし、歴史的経緯が決定的に異なる。これは英国と欧州諸国との係わり合い、日本と南方諸国・中国・朝鮮・満州からベーリング海峡に至る地域との係わり合いを歴史上の交渉の過程を思い浮かべながら比較すれば、容易にその差を感得することができよう。そのような欧州の歴史に揉まれて、英国の文学、とくに風刺文学は独特の発達を遂げた。だから本書は、風刺、批評、当てこすりの文学として典型例なのである。
【それはさておき】
 それにしても、戦後の日本語は、当用漢字をわずか二千字に制限したことによって痩せ細ってしまった。訳者の中野好夫は英文学者、評論家として知られ、一九〇三年(明治三六)生れ、一九八五年(昭和六十)没。練達の訳者として知られるが、いま一般に使われている日本語とくらべて、中野好夫の訳文は、日本語として格段に味の濃い日本語である。彼が原著者について語った「解説」の部分から数行引用してみよう。
「彼は傲岸不遜だった。だが彼には自分にさえ、どうにも持て餘し気味の烈しい世俗的野心が胸の中に煮え返っていた。経済的隷属は同時に精神的奴隷でもあるということは、いつの世に於いても眞理であるが、十八世紀英国社會に於いては殊に眞実であった。じっとしていては、決して憐憫をかけてくれるものではない生活の闘いを、餘りにも知りすぎて來た彼の現実主義は、とにかく自己の存在を顯すことだと彼の胸に囁いた。」
 中野好夫がこの訳文で使っている日本語は、旧漢字も交えてあるし、書き方も戦前と戦後の国語が入り交じっている、いわば過渡期の日本語である。このあと日本語はいま見られるように、どんどん痩せていってしまった、というのが評者の感想だが、読者諸賢は、戦後これほどまでに日本語が痩せてしまって、描写が単調に陥ってしまった事実に、愕然とすることはないのだろうか。□