tokyokidの書評・論評・日記

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書評・日出づる国の「奴隷野球」

tokyokid2007-06-18

書評・★日出づる国の「奴隷野球」(ロバート・ホワイティング著・松井みどり訳)文芸春秋社

【あらすじ】
 副題に「憎まれた代理人団野村の闘い」とあり、アメリカ人著者が、日本の野球には「奴隷制度」が残っている、と指摘した本である。同時に著者は「日本では異端児扱いされている」代理人団野村を擁護し、賞賛し、彼の力を借りて「奴隷制度を髣髴させる」日本のプロ野球から「果敢にも、自由と正義の」アメリカ・大リーグに移籍し、アメリカンドリームを追求した野茂、伊良部、吉井について書いたノンフィクション本である。ここには、プロ野球という一業界に起こった現象を通じて、日米両文化を比較することが可能な材料が詰まっている。内容は次の五章に分かれている。
第一章・開拓者、野茂英雄
第二章・団野村が学んだこと
第三章・伊良部を翻弄した“契約”
第四章・ドミニカ共和国
第五章・将来を考える
本書を読むと、日本のプロ野球関係者は、アタマの悪い(または固い)独裁者が多い、ということになるだろう。だからこそ前記の選手たちが、団野村を頼らざるを得なかったのだ、と著者はいいたげなのだ。
【読みどころ】
「プロローグ」で著者は、文芸春秋の編集者から団野村について書かないか、と持ちかけられたというところから話を始める。だからこの本は、当時日本球界から蛇蝎のごとく嫌われていた団野村について著者が接近し、インタービューの結果生れた本なのだ。ここで日本人の読者としては、著者のロバート・ホワイティングは、英語を母国語とするアメリカ人だという事実に注目せざるを得ない。この本は要するに、アメリカ人の考えに基づいた物語なのだ。従って、ここでは(自由で正義の)アメリカ文化が主であり、(和の精神に基く満場一致方式の)日本文化は従の扱いしか受けていない。見方を変えれば、世界唯一の超大国アメリカのアメリカ人が、戦後60年余の間に世界第二の経済大国にのし上がったとは言え、カネはあっても軍備は持たず、憲法で「問題解決の手段としては武力を用いない」ことを定められているところの、いわばアメリカに従属する「肥った豚」である日本文化を、ひとつの野球ビジネスである「代理人」である団野村というレンズを通して、著者が「自由と正義の」アメリカ文化を是としながら「奴隷制度のもとにある」日本のプロ野球界を批判的に書いたノンフィクション、と言うことができる。
【ひとこと】
 この本は、われわれ普通の生活を送っている日本人の読者に、日米文化の違いを肝に銘じる役目を果たしてくれる。アメリカ人のいいところは、得点主義による評価が全土を覆っていること(当然の帰結として減点主義はとらないこと)、楽観的なこと、(ことの次第と結果は別として)善意に溢れている人が多い、というようなことだろう。一方アメリカ人の欠点は、自己中心的であり、他国や他文化に関心も知識も持たず、とくに有色人種に対する偏見はいまだにごく普遍的に見られる現象であり、ことに当って反省しない人が多い、というところであろう。最後のアメリカ人には「反省しない」人が多いことについて補足すれば、アメリカでは、反省したり謝罪したりすれば、それはその人が誤っていたことをみずから認めたことになり、社会の敗者として評価されてしまうからである。日本では、世渡りの潤滑剤として「ごめんなさい」ということは自己をおとしめる言葉ではなく、他者(相手)に対する配慮の証として解釈される。もちろん「ごめんなさい」と言ったから、言った人が「決定的に」自分の誤りを認めたことにはならないのが普通である。日本からアメリカに留学にきていた女子大生が交通事故に巻き込まれて、こうしたアメリカの事情をわきまえずに交通裁判で「I am sorry」と言ったばかりに、裁判官はただちにその女子大生のほうが事態を認識しながら規則に違反したと判断して、留学生の責任を認め、有罪を申し渡した、という話が当地で話題になったことがある。多分この女子大生は、日本での「ごめんなさい」と同じ感覚で英語の直訳を口にのぼせただけのことで、そうすることによって、自分の落度が確認されて責任を問われて結審するとは思っていなかったのではないか。要するにアメリカでは、自己は常に正しいと主張していなければならないし、反省などすれば「ヤミに葬られる」とまでは行かなくとも、その件に関しては徹底的に不利を蒙る結果になることは間違いない。それに対して日本では、アメリカ建国よりずっと以前の千数百年前の聖徳太子の時代から「和」の精神が強調され、満場一致が見込めるまで根回しと議論が繰り返される方式で、最近までやってきた。江戸時代には、本人の行動の責任は本人のみならず家族にも、家主・店子などの(社会学でいうところの、利益社会の構成員の)間でも厳しく連帯責任が問われ、(それだけあれば一家族が一年間暮らせるといわれた)十両盗めば本人の首は飛び、連帯責任者は罰せられたのだ。著者も団野村も、日本で生活していれば、一般的に言ってアメリカやその他世界の大多数の国に比較してはるかに安全な日本の生活を享受していることと推察するが、この日本の安全性も、一夜にしてできたわけではない。聖徳太子以来の伝統に裏打ちされているのだ。こうした日本の伝統を(故意にせよ無智にせよ)無視して、アメリカ流の善悪の判断基準を用いて、日本の事例を云々するのは、適当ではない。日本には日本の風が吹いているのである。
【それはさておき】
 さきごろ日本社会の一部から、拝金主義的といわれて失脚したIT事業と金融事業のそれぞれ「有名な」経営者がいた。理由はともあれ、この二人は、日本社会の和を乱したのが間違いの始まりであった。つまり二人は、聖徳太子以来の日本の伝統に背いて、無批判にアメリカ方式を日本で(強烈に)推進してしまったのである。その結果社会に馴染まず、ということであのような結末を招いたのであろう。本書には、近鉄時代の鈴木啓司監督と確執する野茂英雄選手の記事がでてくるが、かつて日本の角界では「兄弟子はムリへんにゲンコツと書く」と言われたように、選手たるもの上に逆らうことは思いも寄らなかった。どこの世界にも、ヘボ監督やヘボ上司は居るものである。ベーブ・ルースがよき監督であったとは評価されないように、名選手必ずしも名監督ではあり得ない。それでも、じっとガマンの子を期待されるのが日本なのである。戦後のアメリカからきた民主主義のおかげで、そのあたりは日本でも最近はずいぶんと緩和されたことと思うが、それでもスポーツや芸能の世界にはまだその伝統が脈々と流れている。いや「忍の一字」を標榜する(せざるを得ない)サラリーマンの世界ですらも、同じことだ。なにごとも下積みから始まり、上役の指示に従い、自分の意見が言えるようになるまでは、上に逆らうことは許されないのだ。著者は日本のそういう伝統を知らないでこの本を書いたのか、それとも承知の上で、アメリカのものの見方を日本人に押し付けようとしたのか、その辺の経緯を知りたいものである。「奴隷野球」などとは、日本に対して失礼だろうし、その失礼さ加減は、かつて中曽根元首相が、アフリカ系アメリカ人知能指数を問題にしたのと同等である。例によって、これはアメリカ人特有のひとりよがりの正義感の発露だろうと判断せざるを得ない。
【蛇足】
 本書の著者のロバート・ホワイティングは、以前この書評でも取り上げた「東京アンダーワールド」の著者でもある。外国人であるがゆえに、身の危険を感じることなしに暗黒面を書けることは、ジャーナリストとしては非常に有利な点だ。著者はこの点をもっと認識して、いいものを書いてほしい。(文中敬称略)□