tokyokidの書評・論評・日記

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書評・てんとう虫が走った日

tokyokid2007-05-17

書評・★てんとう虫が走った日(桂木洋二著)グランプリ出版

【あらすじ】
 本書には「スバル360開発物語」の副題がつく。昭和三十三年(一九五八)五月に発売され、昭和四五年(一九七〇)五月に累計三十三万台余りの生産・販売が終了した「往年の名車・スバル三六〇」の物語である。数字の「三六〇」は、当時の軽自動車のエンジン排気量が三六〇cc未満と決められていたことによる。
【読みどころ】
 日本独特の自動車規格である「軽自動車」は、当初の規格を何回か拡大しながらも、平成の現在でも生産され、また大いに売れているが、スバル三六〇はその嚆矢ともいえる富士重工のくるまである。昭和三十三年といえば、昭和三十一年の経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言してから2年が経っていたが、戦前は特権階級の持ちものであった自動車が、戦後の混乱の中から、そのころには既に(商用車を中心に)道路に数多く姿を現し始めたころであった。当時の通産省は、戦前のドイツ・ヒットラーの国民車構想にヒントを得て、日本でも国民車構想をまとめ、一家に一台のくるまを目指したが、軽自動車はその政策の一環であった。当時先進の本格的高速道路・アウトバーンを持つドイツでは、国民車といっても空冷4気筒1200ccエンジンを積んだ本格的なフォルクスワーゲン・ビートルを開発していたが、そのくるまは戦後全世界で大ヒットして累計生産台数も二千万台を超えた。道路のせまい日本では、一回りも二回りも小さい軽自動車規格による名車が、同じく空冷であるが、たった2気筒三六〇ccのエンジンを積んだこのスバル三六〇であった。車名の愛称には「かぶと虫」と「てんとう虫」の違いはあっても、両方とも「虫」にちなんでいるところが面白い。本書を読むと、くるまを持つ、というのはそのころの日本国民の夢というか悲願というか、熱烈な支持があって待ち望まれていた商品であったことがわかるし、それを開発する技術者も(いまのような冷房設備もない工場や事務所など戦前に準じるひどい労働環境下で)不眠不休の努力を求められたものであった。自動車業界にも、戦時中には航空機や軍艦などの軍需産業で働いた技術者が相当数おり、戦後はこれらの技術者が競って自動車業界に参加したところから、日本の自動車産業の技術面は、航空機産業などのノウハウに負うところが多い。戦時中は「中島飛行機」として全世界に名を馳せた会社が、戦後は「富士重工業」と名を変えて自動車メーカーとして新発足したわけだ。航空機は「軽量」でなければ性能を上げることはできず、その伝統を持った技術者が、理想的な軽自動車の内容を盛り込むいいデザインを得て出来上がったのが、このスバル三六〇であった。この間の経緯を、つぶさに取材して一冊の本に仕上げたのが本書である。
【ひとこと】
 本書の表紙に発売当時のスバル三六〇の諸元が記載されているが、写真版では読みにくいと思うので、以下数字を再録する。
■ 寸法重量・全長2990mm、全幅1300mm、全高1380mm、ホイールベース1800mm、トレッド(前)1140mm、トレッド(後)1030mm、最低地上高180mm、車両重量385kg、乗車定員4名。
■ エンジン・形式=強制空冷2サイクル並列2気筒、内径x行程=61.5 x 60mm、総排気量=356cc、圧縮比=6.5、最高出力=16HP/4500rpm、最大トルク=3kg−m/3000rpm。
■ 性能・最高速度83km/h、登坂能力Sinθ0.28:16°、最小回転半径4m、燃料消費率26km/ℓ・・・・・
 であった。定員4名を乗せながら、いかに重量が軽いか(わずか385kg)、燃費がいいか(マイルパーガロンに直すと、なんと60マイル/ガロン)。いま全世界を走っているくるまをすべてスバル360に置き換えたら、ガソリン不足はたちどころに解消するであろう。(お疑いの向きは、1マイル=1.6キロメートル、1ガロン=3.78リットルでご検算あれ)。なお発売時の価格は42万5千円と、当時の小型自動車にくらべて格段の安さであった。
 評者は一九六七年の秋ごろ、テキサス州エルパソの自動車販売店で、輸出版の派生型スバル450多数が、ズラッと並んで客を待っている光景を見た。そのあとは、アンティーク・カー専門紙「Old Cars」の売買欄で、このくるまをいちどだけ見掛けた。
【それはさておき】
 戦後昭和三十九年(一九六四)の東京オリンピックを経て、日本は世界第二の経済大国になった。それにつれて、自動車を持つことはなにも珍しいことではなくなった。このスバル三六〇が、当時日本のモータリゼーションの一翼を担ったことは言うまでもないだろう。世紀が変って、いまや自動車は、冷蔵庫やテレビなどの家電製品と同じく、単なる耐久消費財のひとつに過ぎなくなった。したがって熱狂的な自動車ファンの数は減り、いま全世界でその名をとどろかす日本製自動車をみてみると、品質や耐久性は他国製にくらべると群を抜いて優秀であるが、その設計やスタイリングは陳腐としかいいようのない退屈なものになってしまった。作る側にも乗る側にも、「カーガイ」が極端に少なくなってしまったのである。つまり自動車から「感激」という文字が薄れてしまったのだ。本書には、当時「てんとう虫」「かぶと虫」と比べられることの多かった内外の名車たち、たとえば「オートサンダル・ロードスター」「フライング・フェザーFF7」「スズライトセダンS5型」「NJ号」「コンスタック・ライトバンCL」「三菱500」「メッサーシュミットRK200」「BMWイセッタ300」「シトロエン2CV」や、当時の国産車「日野ルノー4cv」「いすずヒルマン・ミンクス」「オースチンA50」「トヨペット・クラウン」などの写真が掲載されていて、なんとも懐かしい。
 評者はこのスバル360が開発されたとき、くるまをデザインした佐々木達三が、現在でもスバル車に使われているオーナメントの(星座のスバルをあらわす)六連星をデザインしたものと長い間思い込んでいたが、こちらのほうは、当時社内公募したオーナメントのデザイン選定に彼が関わった、というのが真相のようだ。それにしても「スバル=富士重工六連星」というイメージが広く定着しているのに、何年か前に道中で浮気して、オーナメントのデザインを富士重工の頭文字「F」をおかしげにデフォルメしたものに変えたことがある。結局六連星に戻ったようだが、このあたりにも、日本企業特有の、ブランド構築に対する甘いというか、安易な考えが垣間見える。□