tokyokidの書評・論評・日記

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書評・指揮官(上・下)

tokyokid2007-02-13

書評・★指揮官(上・下)(児島襄著)文春文庫

【あらすじ】
第二次世界大戦(日本では太平洋戦争・後述)の各局面で、軍隊を率いて闘った彼我の指揮官を丹念な取材で、その人物像を描き出してみせた力作。著者の児島襄は東京生れ(一九二七年(昭和二)生〜二〇〇一(平成十三)没)で、通信社の記者を経て戦史研究家となった。著書に「戦艦大和」「東京裁判」「史説山下奉文」などがある。この本は、各戦場での指揮官の戦術はもとより、国家を挙げての総力戦にみせた国家の、ないしは軍上層部の戦略の巧拙を含めて、日本最後の戦跡を振り返る資料として価値ある書ということができる。上巻は日本軍の将軍たち、下巻はドイツの首相であったアドルフ・ヒットラーと自由インドの指導者であったチャンドラ・ボースを除いて、アメリカ、ドイツ、中国、ロシア(当時ソ連)の戦闘指揮官であった外国軍の将軍たちに関する、戦時の戦闘ぶりや(もし生還していれば)戦後の復帰後なども描いたドキュメンタリーである。以下の「目次」からこの本に取り上げられた将軍たちがわかる。
【上巻】山本五十六宮崎繁三郎山下奉文本間雅晴栗林忠道、栗田健男、牟田口廉也牛島満、中川州男、小沢治三郎、安達二十三、大西滝治郎、東条英機阿南惟幾
【下巻】ダグラス・A・マッカーサー、オード・C・ウィンゲート、ウイリアム・F・ハルゼー、レイモンド・A・スプルーアンスジョージ・パットンチェスター・ニミッツ、ホーランド・スミス、エルウィン・ロンメル林彪、グリゴリー・ジューコフチャンドラ・ボース、ドワイト・D・アイゼンハウアー、アドルフ・ヒットラー
ひとこと付け加えれば、これらの名前から、誰が戦争中にどこの戦争の指揮官であったか、どういう(プラスであろうとマイナスであろうと)戦績を挙げた人たちであったか、世間の評判はどうであったか、当時マスコミはその人物像をどのように報道していたか、そうした戦中・戦後の社会的評価の一般論を、名前の字面をなでただけでその人物像を彷彿させることのできる人は、読者諸賢の間でも、現在ではもう極端に少なくなってしまったものと思われる。戦後半世紀の余を経て、時代は変ったのだが、歴史は忘れ去られるべきものではない。歴史を忘れる者はしばしば亡国の民となり果てるとは、それこそ歴史が教えるところである。
【読みどころ】
戦争はギリギリの生存競争である。ことは常に一刻を争う。戦争とは、ひとたび起こってしまえば、その戦争に参加する(本来指揮官を含む)兵士が、自己と、家族と、同胞の生存を賭けて、殺し合う場なのだ。必然的に、このような場では、それに参加する個々人の人間としての資質がナマの形で出てくる。このような場に参加した内外の将軍たちの、いわば人間性と戦闘能力のバランスの取り方を、この本は読者たるわれわれに提示してくれる。戦中・戦後の戦闘中の挙動とその後の出処進退に齟齬のなかった宮崎繁三郎少将、安達二十三中将など、ここではあえて事跡が必ずしも有名でない将軍をふたり挙げたが、そのほかにも名将・知将・勇将の名を辱めない、「品性」「資質」「包容力」「意志」「識見」「洞察力」など、いわゆる指揮官に必須の要素を満たしていた日本軍の将軍も数多く存在していた事実は認めねばならない。一方で学業の成績はよくて赫々たる戦績を挙げても部下に慕われることのなかった将軍、反対に学業は必ずしも優秀とはいえない成績だったが、部下思いで大局を誤らなかった将軍、戦闘に勝つためには部下を顧みることなく彼らを危地に陥れることをためらわず、その結果何万という部下を殺しておいて、自己は平然と復員して(自分だけは)戦後長寿を全うして畳の上で死んだ将軍(牟田口廉也)など、これらの人物の実像をこの本は後世に伝えてくれる。
【ひとこと】
死者に鞭打つことは、日本では礼儀に適うことではない。しかし本書中にも取り上げられた佐賀出身の「牟田口廉也(むたぐちれんや)」(明治二一・1888年生〜昭和四一・1966年没)だけは、たとえこの礼儀を失しても特筆しなければならない。本書上巻の「牟田口廉也」の書き出しはこうなっている。
「鬼畜牟田口・・・と、太平洋戦争最大の陸戦といわれるインパール作戦の指揮官、第十五軍司令官牟田口廉也中将を、第三十一師団長佐藤幸徳中将は評言する。」
第二次世界大戦中の陸戦2大敗戦といえば、インパールガダルカナルであった。インパール作戦について本書は「インパール作戦の損害は大きく、かつ惨烈であった。第十五軍十万人は、インド東北部、雨のアラカン山中に飢えと疲れに悩み、“白骨街道“の異名そのままに延々と死体の列を残して退却した。」と書いている。この作戦で、第十五軍司令官・中将・牟田口廉也は、補給を無視した突撃を繰り返し命令し、敗軍となってからは、麾下の3師団長・柳田元三中将、山内正文中将、佐藤幸徳中将にともに責任を負わせて解任という前代未聞の戦績を残して壊滅する。(なお同じ中将でも、軍隊では先任制度で指揮系統が決まるため、中将である牟田口廉也は同じ中将である麾下の3師団長の上官で有り得た・評者注)。本書には書かれていないが、部下のほとんどすべてを餓死せしめた牟田口廉也は、自身は戦線にあっても毎日飽食、その上無傷で復員したあとは東京の調布に住み、自己がインパール作戦中発案し、失敗した、食料と運送用に「生きた」牛と羊を連れた作戦名「ジンギスカン」からとった「ジンギスカンハウス」という料理屋を営業したといわれる。戦後取材に訪れた者に対しては「インパール作戦が失敗したのは、部下の責任だ」と最後まで繰り返し述べ、部下の葬式に列席したときも、自己の無実を記したパンフレットをその場で配布したという人物であった。「敗軍の将、兵を語らず」の格言を知らない陸軍中将という者を養成した日本陸軍の教育はどうなっていたのか。どう控え目に見ても、インパール作戦司令官の牟田口廉也は、今次大戦のもっとも人間性卑劣で愚劣な指揮官として名を残すことになるのではないか。こうした無能を通り越して有害無益な将軍がその席に座ること自体、軍隊を含めて組織の限界であり、そのような司令官の指揮下に入った将兵は、(軍隊が上官に逆らうことが許されない以上)あとは運を天に任せるよりほかはないのである。企業活動と違って、命のやりとりが前提である軍隊において、戦争とは、敵に対してだけではなく、場合によっては味方に対しても無残かつ残虐な行為であることを認識せねばならない。
【それはさておき】
第二次世界大戦は、日本では太平洋戦争と呼ばれるが、その呼名は不当に低く評価されたものである。なぜならば、この戦争が支那事変から東南アジア諸国での戦闘からインド洋、アリューシャン風船爆弾による米国本土にまで及んだ事実を直視し、さらに欧州・大西洋にまで日本の(潜水艦による)出撃を敢行したことなどを考慮し、さらにさらに日本の当時の同盟国(枢軸国)のドイツ・イタリアが当時ほかの全欧州を敵に回して闘った事実を併せて考えれば、当然「第二次世界大戦」の呼称を用いるべきなのである。行政におけるこのような偽善行為は、本土決戦こそ回避して「本州・四国・九州・北海道での地上戦闘は行われなかった」が、実際には日本領土の沖縄で酸鼻な地上戦を経験したのであり、米空軍力によるあまねき本土への絨毯爆撃の結果国全体が廃墟となった結果のあの惨めな敗戦という事実を、呼名・呼称においても、正当に表していなければならない。それには「第二次世界大戦」のほかに正確な呼名はないはずなのである。政府は単に戦争の名称を、世界規模の「世界大戦」から地域規模の「太平洋戦争」にすり変えることによって、戦争そのものの規模を小さく見せて己れの責任回避を図ろうとする、じつに情ない態度なのである。この事実は(じつは国民に公僕として仕えるのが使命であるはずの)政治家と官僚による責任回避の処世術の一環としてしか、理解することができない。先の大戦で、日本は枢軸国のドイツとイタリアを除いて、反枢軸国のほとんど世界中を相手に回して闘った事実は、そこに立至った経緯とともに、忘れてはならないことなのだ。この本来避けてはならない歴史上の問題点の評価と点検を怠って、次代の日本人に適切な教育をしないで済ませてきたのが、戦後から現在に続くいまの日本の義務教育の一大欠点ではないのか。□