tokyokidの書評・論評・日記

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書評・江戸狂歌

tokyokid2007-02-09

書評・★江戸狂歌(なだいなだ著)岩波書店・同時代ライブラリー

【あらすじ】
「古典を読む」という岩波書店のシリーズに、江戸狂歌を作家のなだいなだ氏が書き下ろした本。岩波書店の「DL版」とはなんのことかこの本には説明がないので判然としないが、文庫版より一回り大きな版型、文庫本が17行ほど組んであるのにこのDL版はたったの13行と、活字が大きく装丁もゆったりとしていてとても読みやすく、老眼の高齢者向きの本、ということになるのだろう。ましていまどき「江戸狂歌」を読もうという若い人は、それこそ暁の星のように数少ないだろうから、この手の本に興味のある高齢者向きのニッチ狙いの本であることは、はっきりしている。なだいなだ氏は一九二九年東京生れというから昭和四年生れ、青春期を戦時中に過ごした世代だから、笑いに飢えていたのであろう。なにしろ戦時中は、男子たるもの公衆の面前で白い歯を見せるとはなにごとか、と(笑うことは真面目でない、従ってお国のために聖戦を遂行している日本国民として不真面目であり怪しからん、ということなのであった)叱られて、怒鳴られるくらいならまだしも、教官によってはビンタが飛んできた時代であった。いま吉本系などといって、大口開いて笑っていても誰に叱られることもないのは「いい時代」なのであって、日本の歴史には、このように笑いたいときに笑えるいい時代ばかりではなかったことを覚えておく必要があるだろう。この本はまえがきに代えて「笑いを忘れた時代」という項目から始まっており、甘い汁粉にちょっぴり塩を入れることによって汁粉の甘さを引き立たせるのと同じ効果を出している。いとにくい、江戸狂歌を扱った本である。
【読みどころ】
 けっきょくのところ著者も言うように、江戸狂歌は庶民の反骨とユーモアなのである。本書から拾ってみると、次のように冷笑的な例が挙げられる。
* しき島のやまと心のなんとかのうろんな事を又さくら花(上田秋成
* 君がかほ千世に一たびあらふらしよごれよごれて苔のむすまで(雄長老)
前者は、第二次世界大戦軍国主義者のお好みであった本居宣長の「しき島のやまと心を人問はば朝日ににほふやまざくら花」のパロディであり、後者は戦国時代の天正十七年(一五八九)ごろ作られた「君が代」のパロディであったという。著者はこのような狂歌を広く拾い出して、解説してみせる。だが花鳥風月を愛する日本人は、こうした「反骨」ばかりを問題にするわけではない。次のような風流はどうだ。
* 窓のうちにふじのねながらながむればたゞ山の手にとるとこそみれ(大根太木)
* 男なら出て見よ雷にいなびかり横にとぶ火の野辺の夕立(平秩東作)
 そして徹底したからかいである。
* 世の中は色と酒とが敵なりどふぞ敵にめぐりあいたい(蜀山人
* 親もなし妻なし子なし板木なし金もなければ死にたくもなし(林子平
 極めつけは「辞世」だろう。
* 死にとうて死ぬにはあらねど御年には御不足なしと人の言うらん(手柄岡持)
* この世をばどりゃお暇(いとま)と線香の煙りとともにはいさようなら(十返舎一九
しゃれてますねえ。まるで鯔背な江戸っ子を見るようだ。これらの江戸狂歌を、著者は背景の説明とともに、手の内を明かしてみせてくれる。
【ひとこと】
 いまでは新聞・雑誌の投書欄があり、政治家や官僚について意見を述べても、それだけでは咎めを受けることはなくなった(でもその時代もそろそろ終りを告げるかも知れない)。だからお上とその御威光をないがしろにするようなことを言っても、それだけで手が後ろに回ることはない。だが江戸時代は封建の時代で、投書など下意上達の手段はないに等しかった。それで狂歌は庶民の憂さの捨てどころとなった。だが一方、江戸時代は封建時代のシステムが巧緻にできあがった時代で、たとえばものごとはすべて「連帯責任」を問われた。罪を犯せば、本人だけではなく一族郎党、また村の名主や借りている長屋の家主も(たとえ赤の他人であってもその)責任を連帯して問われたのである。だからこの時代には、お上の政治を狂歌に託してあてこするのは、自分にとっても縁者にとっても、命がけの行為であった。ここが現代とは違う。でもわずか半世紀ちょっと前の太平洋戦争(第二次世界大戦)までは、その意味では江戸時代と同じような状態が続いていた。「特高特別高等警察)」と呼ばれる特殊警察が、当局とは相容れない思想を持つ者に対して強力な弾圧を加えたことは周知の事実である。だからこそ永井荷風(明治十二年・一八七九〜昭和三四年・一九五九)が、戦後しばらく経ったあとでも、公式の裁判の場で、艶書として有名であった「四畳半襖の下張り」を自分の作ではないと、懸命に否定したのは上記と同じ理由からだったと思われる。これは戦後のことで、そう昔の話ではないのだ。
【それはさておき】
 そもそも江戸狂歌は庶民がお上を「おちょくる」手段として発達した芸術の一形式であった。いつの時代にもお上は自分の都合に合わせて号令をかけるだけの理不尽な存在なのであり、庶民は締木にかけて油を搾り出される胡麻のように、搾れるだけ搾り取られる存在なのであった。秀吉に始まって家康に引き継がれたという対百姓政策の「生かさず殺さず」に見るまでもなく、主権在民になったはずの戦後でさえ、公僕たるはずの「行政府」つまり政府は、大いばりで要りもしないハコモノを巨額の費用を使って作り(もちろん原資が国民の納めた税金だ)、それに経費がかかり過ぎて持ち切れなくなると二束三文で売り払い、あまつさえ庶民にはそれまでになかった「消費税」その他の増税を押し付けて、テンとして恥じない存在なのである。ほかにも裏金を作って内輪の飲み食いに使ったり、その裏金を流用して自分用の競馬馬を買ったり、在外公館の施設費として法外な値段の名画を買い漁ったり、官僚が民間人にノーパンしゃぶしゃぶで接待されたり、むちゃくちゃをやりたい放題なのである。それでいて役所の経費節減には一切応じようとしない。民間が予算を切り詰めて(予算を余して)も、割戻しは愚かお褒めの言葉もない。まるで「余計なことをしてくれた」という態度と扱いなのだ(名古屋・中部空港)。いや、役所というところは、表面上は協力しているように見せかけながらいつの間にか元の木阿弥、どころか焼け太りの有様になるのがオチなのである。こうした行政府の理不尽を見ても、庶民がもし一揆や革命を起こさないとすれば、これは狂歌でも作ってお上のすることを「おちょくる」しか手段はないではないか。それも前述のように、大口開いて笑うことができなければ、怒りをぶつける代りにせめて狂歌を作って大方の苦笑交じりの笑いを誘い、陰で大方の喝采を受けることによって抗議の姿勢を明らかにするしかなかったのだ。それを「もの書きの医者」として有名な著者は、みごとに腑分けしてわれわれに見せてくれる。ちなみに氏の医者としての専門は「精神科」であるとのことだが、作家として名高い斉藤茂吉といい北杜夫といい、精神科の医者はよほど筆の立つ人が多いのは偶然だろうか。□