tokyokidの書評・論評・日記

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書評・島原・天草の諸道

tokyokid2007-02-01

書評・★島原・天草の諸道(街道をゆく17・司馬遼太郎著)朝日文芸文庫

【あらすじ】
街道をゆく」は、司馬遼太郎の最晩年の、渾身の力を込めて執筆した、ライフワークとも呼べる作品である。内容はみごとな出来栄え、というしかないし、全43巻のどれをとっても日本国民必読の書と言えるだろう。文庫本の腰巻には「風土と人間を見つめる思索の旅」とあり、これは単なるコピーに留まらず、この長大シリーズ作品群のあり方を描写して余りなく、そのまま信用するに足るコメントである。長らく週刊朝日に連載された。第1巻の「甲州街道・長州路ほか」から最終巻の「濃尾参州記」まで、日本国内のみならず海外の「諸道」についての記述を含めて全部で43巻あり、しかも著者急逝による未完の作品なのである。そのなかから評者はなぜ第17巻の「島原・天草の諸道」を選んだか、それは日本史上初めて西洋文化との接点に端を発してほどなく起きた悲劇の「島原の乱」の真の原因が、日本人一般がおそらく抱いているであろうところの「宗教戦争」であるよりは、むしろ圧政に立ち向かった「百姓一揆」の様相に近い乱であった、という著者の見解が新鮮でかつ説得力に満ちたものであるからだ。つまり日本人の特質として自他ともに認められている「親切」「思いやり」「温厚」などという美徳が、じつは一部の日本人においては見事に欠落しているばかりでなく、自己の権力を恃んでその反動ともいうべき極端な圧政の行動に突き走る者がいるという現実を、島原の大名であった松倉重政・勝家親子を例に、著者は鮮やかに私どもの目前に突きつけて見せてくれるからである。もうひとつ、明治維新以来、日本は「和魂洋才」「上等舶来」の思想に貫かれて現在に至るが、一方で日本人は、本来宗教活動であるローマ発のキリスト教教義の一派である「カトリック」を、当時の先進強大国が、アジアに自国の植民地を作る手段として用いることによる日本の独立を損ねる事態を招くことを恐れて、秀吉・家康以来強力な弾圧に転じる。このもとになる重大な契機になった事実を、著者は「島原・天草の諸道」に於いて、見事に切り取って見せてくれる。
【読みどころ】
 この本の物語は、島原の乱が起こった当時の大名・松倉家の、戦国期の動静から始まる。戦国時代の天下分け目をどう機転を利かして徳川家康に取り入ったか、そしてその寵を保つためには、領民をいかに絞り上げたか、それがこの本のひとつの眼目である。このところを著者は、領主の松倉重政が自分の知行高が四万余石であるのに、江戸城の石垣築造の工事を担当するに当って、みずから願い出て、十万石相当の出費を申し付けてくれと幕府に願い出た、というのである。当時の制度では、たとえ江戸城関連の工事であれ、幕府からそれを申し付かった大名は、自分の費用で工事を完成させねばならなかった。もし松倉重政が十万石相当の工事を江戸幕府から請け負ってしまえば、その費用は領民からの上納(すなわち税金)でまかなわねばならない。つまり領民は領主に対して、この工事に関する限り、知行高の二・五倍の上納金を差し出さねばならない。これ以後島原藩では、法外な重税が領民に課されたばかりか、窓や門を作ったからといって税金、その上寛永十一年(一六三四)から数年続きの凶作となった。このとき松倉家は、税金を納められない領民に対する刑罰を切支丹なみに切り換える。わら蓑をつけたまま火をつけて、人間が苦しむさまを「蓑踊り」と称したとか、人間を籠に入れて流れの早い川に漬ける、ということをやってのけたという。男は農作の労働力だからというので、臨月の若い嫁をこの方法で川に漬け、舅が自分を身代わりにしてくれと申し出ても認めず、昼夜六日間漬け続けた。その家では「米を税金として出せば許す」といわれても一粒の米もなく、そのあと嫁は水中で出産し、母子ともに死んだという事例を著者は挙げる。そして言う。「ここまで追い詰められれば、魚でも陸を駆けるのではないか」。さらに著者は、松倉重政・勝家に代表される松倉氏の政治を「ごろつきの政権」と決め付けるに至る。こうして島原藩の領民は、同様の政治を領民に押し付けていた隣領の天草藩(寺沢広高)の領民である天草四郎と呼応して、この事件をきっかけに、税金を払えない領民たちが、のちに島原の乱と呼ばれる一揆を起こす。最初は重税による領民の一揆であったために宗教色は薄いものであったが、のち弾圧される切支丹もこの一揆に加わって、この報告が江戸に飛ばされるころには「百姓共切支丹、俄に立ち上がり・・・」とされた、と著者は言う。わずかな救いは、ずっと後世のことであるが、島原が幾多の経緯のあとに天領(幕府直轄領)となり、赴任してきた良心的な幕府代官の鈴木重成という人が、島原の知行高四万二千石というのは過大であるとして、幕府に対して二万一千石が相当であるから変更してほしいと願い入れて聞かれず、出府の上願書を出し、自刃したので幕府もやっと重い腰を上げ、実力通りの二万一千石に改めた、というのである。でも考えようによれば、平成の現在でも、松倉氏や寺沢氏などの「ごろつき政治」は形を変えて横行している、といえるのではないか。
【ひとこと】
 秀吉以降、日本は鎖国に走る。通商を許すのは「唐」とよぶ中国と、欧州ではキリスト教の新教を国教とするオランダだけ、といういわゆる「鎖国」の時代に入る。そのきっかけとなったのが、本書に出てくるスペイン船「サン・フェリペ号事件」だった。著者によれば、サン・フェリペ号は文禄五年(一五九六)、土佐沖を航行中、暴風雨にまきこまれて、船体修理のため浦戸湾に入港した。ところが、同船に乗務していた水先案内人のフランシスコ・サンダという者が、秀吉から調査のため派遣された増田長盛に対し、「スペインは強大国である。フィリッピンなどを植民地にするに当っては、宣教師を送ってまず懐柔をはかり、そのあとで軍隊を送るのだ」と口走った。これで秀吉の態度がいちどに硬化し、切支丹禁制を触れ出した、というのである。たしかに宗主国のスペインが、フィリピンや中南米のペルー、アルゼンチンなど諸国を植民地化するに当っては、その通りあるいはそれ以上の悪辣な手段を使っており、当時ようやく西欧のこともある程度までわかりかけてきた日本の為政者にとっては、これは重大な情報であったろう。話は江戸時代のずっと後世に飛ぶが、文化三年(一八〇六)に、当時日本の幕府に通商を迫って断られたロシアが、自国の海軍大尉・フォストフを使って官製海賊となし、日本の北海道周辺、カラフト、千島、利尻などを無差別に荒し回って日本人に対する暴行略奪事件を起こしたことがある(北海道の諸道/街道をゆく15所載)。これらの事件が当時の日本の為政者、具体的には秀吉(前者)と徳川幕府(後者)に対して、よほど大なる警戒心を起こさせたものと見える。前者は切支丹禁制、後者は尊皇攘夷という(内国向きではあるが)対抗策が強力に推進されたのである。歴史の示すとおり、結局日本は明治維新時に開国するわけだが、このとき日本人の心には、米国を含んで欧州列強の植民地政策に対する強烈な恐怖心と警戒心が芽生え、それが結局維新後の対欧米政策とその影響下に於けるアジア政策に「陰に陽に」反映されて、日清・日露の両役さらに第一次世界大戦での漁夫の利、どんづまりは支那事変とそれに続く第二次世界大戦(太平洋戦争)での敗戦・・・という大事に至る伏線になった、と評者は考える者である。
【それはさておき】
 島原の乱で、島原の住民は死に絶えた。それで幕府は、ほかの土地から人の絶えた島原の地に入植させる。島原の乱の舞台となった原城のその後や、それから一五〇年余ほど後の「寛政の大変」と呼ばれる、寛政四年(一七九二)の雲仙岳眉山の大崩落(このとき一万人ほどが死んだと伝えられる)の話を取り交ぜ、天草との関係も明らかにしながら、著者は丹念に島原の昔と今を描く。余談だが「博覧強記」という言葉は、この著者のためにあるのではないかと思われるほどである。読者諸賢には、できればこの「街道をゆく」シリーズ全43巻を通して読破されることをお薦めする。時間はかかるだろうが、それだけの価値は充分にある本である。□