tokyokidの書評・論評・日記

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書評・おばあちゃんのユタ日報

tokyokid2006-09-15

書評・★おばあちゃんのユタ日報(上坂冬子著)文春文庫

【あらすじ】
 大正三年(一九一四)にユタ州ソルトレーク・シティで創刊された日刊邦字紙「ユタ日報」のその後の推移を、昭和五九年(一九八四)に昭和史・戦後史に強い興味をもつノンフィクション作家の著者が訪ねてその足跡をたどる。いまは廃刊となった「ユタ日報」の、永遠の鎮魂歌となった。
【読みどころ】
‘おばあちゃん’が豪快に太平洋戦争中を回顧して「FBIがユタ日報の記事にやかましいことを言ってきたとき、編集の人はだいぶ神経を病んだようだけど、あたしは逆だったの。ほォ、FBIをこれほどピリピリさせるとはユタ日報もえらいもんだと、むしろ嬉しかったね」と明治女の気骨をみせる。筋金入り肝っ玉母さんの書。新聞発行事業には素人であった肝っ玉母さんが、夫が残した日刊邦字紙を引き継いで、かたやアメリカ政府、かたや日本語活字を渇望する読者を相手に、戦中・戦後をどう乗り切ったか。結論から言ってしまえば、その人の意思の強さがその人の業績の程度を定める、ということだろう。女性はときに男性にまさる事業を最後までやり遂げる能力があることを証明した、気骨の明治・信州生まれの女性の伝記。
【ひとこと】
 昭和一四年(一九三九)に社主で夫の寺沢畔夫が急死したあとを継いでユタ日報を発行し続けた、明治二九年(一八九六)長野県飯田市の生まれで、本書では‘おばあちゃん’と呼ばれる寺沢国子の長い一生の物語。著者が訪ねた頃も九〇歳をこえてなお編集を引き受け、活版活字を拾い、印刷して郵便で発送して、夫亡きあと長い間たったひとりで(正確には日本語を喋れるが読めない長女だけを助手として)この新聞の発行を守り続けた。創刊から戦前の排日移民法の時代を経験して、戦中は強制収容所に収容された日系人たちから当時唯一の日本語情報源として購読注文が殺到し、発行部数も一万部にせまる。開戦の一九四一年十二月十一日に突然FBIがきて発行停止処分を受けるが、七六日後の翌年二月二五日には再刊が許可される。当時ジャップと呼ばれ、米国憲法に反する差別を受けた日本人社会にあって、ユタ日報は日本語のニュースを送り続けた。この間日米のはざまにあってゆれ動く日系人の心理が、ユタ日報紙面の記事となってあらわれるさまを、著者は冷徹な目でみつめる。差別する側と差別される側と。日本に忠誠を誓うグループとアメリカに忠誠を誓うグループと。差別する側でもムチを持って迫るグループと公正さを保とうと努力するグループと。日本と交戦中のアメリカにあって一生日本語を貫きとおし、日本人特有の律儀さと勤勉さとで創刊時の年間購読料6ドルを、七十年後の著者訪問時ですら7ドルに抑えていたという。日刊から週刊に変わるなどあまたの変遷を経たが、ユタ日報の存在感を示し続けた‘おばあちゃん’の物語。
【それはさておき】
 あの激烈な戦時中を生き抜いた典型的な日本の女性の物語である。圧倒的な他人種のアメリカ社会にあって見せた明治女の強さと一途さには頭が下がる。戦時は非常時であり、社会としての日本もアメリカも大ゆれにゆれた第二次世界大戦中に、休まず邦字日刊新聞を発行し続けたユタ日報の物語は、「継続は力なり」を思い出させる。
(TVファン誌2002年9月号掲載原稿)