tokyokidの書評・論評・日記

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書評・間違いだらけのクルマ選び

tokyokid2006-09-05

書評・★間違いだらけのクルマ選び・02年上期版(徳大寺有恒著)草思社

【あらすじ】
原則として日本で発売される国産車・外国車のすべてを車種ごとに「歯に衣着せず」徹底批評するのが売りものの、半期ごとに出版される本がこれ。以前は毎年版だったが、二〇〇〇年版から上期(12月)・下期(6月)の半期ごとの年二回発売となり、追加の特集記事や全車種徹底批評も新規発売車種の記事のボリュームを増加して全体にメリハリをつけた結果、さらに分かりやすくかつ内容が充実したのが現行版だ。
【読みどころ】
一九六〇年代にトヨタのワークス・ドライバーだった著者が、自動車ジャーナリストに転身してから自分がテストドライブしたくるまの記事を率直に書きたい、ということで最初の「間違いだらけのクルマ選び」を一九七六年に出版し、「間違いだらけの・・・」が流行語になるほど好評だった。以来今日まで二〇数年間にわたり休みなく発行されて現在に至る。周囲におもねることのない著者の車種別徹底批評は、メーカーの鼻息をうかがう御用記事、ちょうちん記事のたぐいとは比較にならない迫力をもつ。いまでこそ「商品比較記事」はありふれたものとなったが、その種の記事は「暮しの手帖」くらいしか見当たらなかった当時にあっては、斬新かつ冒険的な試みであった。その後現在にいたるまで、記事の内容がハードとしての自動車だけではなく、ソフトともいえる自動車業界や社会の全体に目が届いていることも大きな魅力だ。化石燃料の限界が世界的規模で問題になっている昨今、ハイブリッド車燃料電池車など、自動車における先端技術の状況などの社会や業界の動きがよく取り上げられている。もともと自動車業界にはあまり関わりのない出版社から発行が続けられているのもむべなるかな。
【ひとこと】
その国で生産されるクルマを見れば、その国民のものの考え方がわかる、と言われる。第一回の一九七六年版でそのように言い切った著者は、批判のための批判ではなく、メーカーもユーザーも協力しながら真に理想的なクルマを実現するための努力をしなければならない、と説く。この著者の他の著作「ぼくの日本自動車史」「徳大寺有恒のクルマ運転術」「58歳からの楽々運転術」などを読むと、著者がどんなにクルマを愛しているか、造詣が深いかの事実に思いが至る。くるまを愛すればこその苦言に、タメにする批評などあるわけがない、読者をそんな気にさせる本である。
【それはさておき】
十九世紀末に発明された自動車は、二〇世紀に大発達を遂げたが、その歴史とデザインに深い理解をもつ著者のような人がパクリ専門の国産自動車メーカーのデザイン部門を率いてくれれば、と願うのは筆者ばかりではなかろう。また「暮しの手帖」が自動車を取り上げないところをこの本はうまくカバーしている、ということができる。さらに言えば、アメリカの「コンシューマー・レポート」誌の大々的な自動車のテスト記事に比べても、この本の運転のプロとしての著者のコメントは、いささかも見劣りすることはない。著者は環境問題にとりわけ敏感で、われわれユーザーが底知れぬ利便性を享受している一方で種々の重大問題を抱える現在の自動車が、少しでも長く生き永らえる方策を模索しているようにみえる。
(以上はTVファン誌2002年7月号掲載記事)
【ブログ版へのあとがき】
 一九七六年に(77年版として)初号が発売されてから、本書をずっと新車購入の際の選択の指針としてきた人は多い。この本には著者のくるまに対する愛情と信念に基づくいいくるま、悪いくるまの批評がはっきりと書かれていたからだ。以降無慮30年間にわたり毎年発行されてきた本書が、まことに残念ながら、二〇〇六年に写真の「最終版」をもって終了となった。それはそうだろう。還暦をとっくに過ぎた著者が、体力的にときには時速200キロを超す過酷なテストに耐えられなくなったとしても、まったく不思議ではない。本書の価値は、単なる「実車テスト」に終わることなく、著者の「くるまはかくあるべき」の信念に基づいて、国産車に対して建設的な批評と提言を長年続けてきたことにある。著者はもちろんそんなことはひとことも言っていないが、評者としては、この本が発行され続けていた30年間に果たした国産車をよくする影響は計り知れないものがあったと認識している。最近ますます提灯記事が目立つ自動車関係出版業界において、残念ながらこれに代わることのできる、信用できる「くるま選び」の本を私はまだ見つけ出していない。幸い著者は執筆をまったく止めてしまったわけではなく、いまでも新聞や雑誌などのマスコミに登場する機会が多いが、それにしても貴重な情報源を失ったという感慨を止めることはできない。余談ながら、著者がどれほど「くるま」を愛していたかは、記事の随所に見える自動車100年の歴史の名車たちをことごとくそらんじていたことでも確実に知ることができる。げになにごとであれ、過去の歴史を知らずして、未来への指針はあり得ないのだ。□