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羅府新報「みんなの広場」投稿原稿・相撲は神事だった

tokyokid2011-03-14

題名・相撲は神事だった
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 23日付き当欄に「相撲と横綱、神事に思う」と題して、先月18日磁針欄に掲載された筆者の「朝青龍の引退問題」を引用して意見の開陳があった。相撲は歴史的に見て神事であったとする筆者の立場を批判し、相撲は商売家業の興行である、とした意見だった。
 「相撲」はもともと動詞の「すま(争)ふ」からきており、「角力」とも書き、昔から神社の敷地内でしばしば「勧進相撲」が催された。だから歴史的に角力は一種の神事であり、意見者の主張する「商売家業」ではなかった。このことはどこの神主に訊いてもわかるだろうし、いまでも横綱が免許されると明治神宮で土俵入りを奉納したり、場所前に関係者が集って土俵を築く際に「御幣(ごへい)」を飾って浄め、無事に興行が済むよう祈念するのも、相撲が神事であった名残りである。現在の日本人は、こうした歴史を知らなかったり、知っていても無視する人が増えたのだろう。相撲を管轄する諸官庁の女性大臣や女性知事で、自ら土俵に上がって優勝力士に賞状を渡したいと強硬に申し入れた人たちがいたが、これは相撲が神事であった歴史を無視した行動であった。このことは高野山が長らく女人禁制であったことからもわかる。
 たしかに戦後の新憲法によって、日本は国家としては特定の宗教を持たないことになった。だからといって、相撲が神事であった歴史まで抹殺されることはない、というのが筆者の見解である。現代人の一人として伝統を守るか無視するかはその人の自由だ。だが筆者は大相撲には神事の名残りを伝統として守ってほしいと願う者である。その意味で力士の最高峰である横綱は、心技体が卓越しているべきだ。朝青龍が負けた相手に追い打ちをかけるなどとは、横綱としてはあってはならない行動だった。相撲は興行だけではないのだ。□
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