tokyokidの書評・論評・日記

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書評・少年文学集

tokyokid2007-01-19

書評・★少年文学集(著作者代表・鈴木三重吉改造社

【あらすじ】
 この本は、「現代日本文学全集・第三十三篇」として、昭和三年(一九二八)三月一日に、改造社から発行された「少年文学集」という題の本である。当時の童話雑誌「赤い鳥」から転載された作品を含むほか、篇者として以下のそうそうたる執筆陣が手を染めているので、目次から著者・篇者名とそれぞれ掲載された作品の題名を書き抜いてみよう。
l 巌谷小波・こがね丸
l 幸田露伴・番茶会談
l 森田思軒・十五少年
l 若松賤子・小公子
l 小川未明・牛女/金の輪/殿様の茶碗/野薔薇/幸福に暮した二人/ある夜の星たちの話
l 島崎藤村・子供のため
l 北原白秋・童謡
l 久保田万太郎・「北風」のくれたテーブル掛け/ロビンのおぢいさま
l 宇野浩二・蕗の下の神様/王様の嘆き/木仏金仏石仏/聞きたがり屋/春を告げる鳥
l 豊島与志雄・天狗笑/箒星の話/天下一の馬/雷神の珠
l 秋田雨雀・太陽と花園/白鳥の国/老僧と三人の弟子/啞の殿様/酒と痩馬/仏陀の戦争/三人の百姓/監督判事/先生のお墓/狐の同情/牧神と羊の群
l 芥川龍之介蜘蛛の糸/杜子春/魔術
l 佐藤春夫・蝗(いなご)の大旅行/美しい町
l 楠山正雄・マッチ売りの娘/裸體(はだか)の王様/おやゆび姫/天使
l 鈴木三重吉古事記物語(上・下)
 以上の著者・篇者と作品は、豪華絢爛というしかない。
【読みどころ】
この作家名と作品名に、ひとつも覚えがないという人は稀であろう。昭和ヒトケタ族は、子供のころにこうした童話をまとめて一冊の本(なんと五六六頁の大冊)で読むことができたのだ。ここには、日本の童話史に残る名作がことごとく網羅されているといっても過言ではない。またこの本には挿絵がいっさいなく、例外的に「十五少年」に島の地図、というか見取図が一葉挿入されているだけである。全部が旧仮名遣いで、総ルビが振ってある。見るからに活字がぎっしり詰まって、内容の濃い本なのである。この本の読みどころは「全部」としか言いようがないが、いくつかの事実を指摘すれば、まず巌谷小波の「こがね丸」は日本最初の創作童話といわれている。また「十五少年」は、フランスの作家・ジュール・ヴェルヌ(一八二八生・一九〇五没)の原作を、森田思軒「訳」による「原作を凌ぐ」といわれる本邦最初の翻訳の「旧かな」による名文である(ちなみにこの作品の新かなによる翻訳は、戦後波多野完治によってなされ、「十五少年漂流記」として新潮文庫に収録され、昭和二六年に初版発行以来改版をはさんで昭和の終りまでに六十刷を数えている)。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」「杜子春」は、おなじみの読者も少なくないのではないか。詩人の北原白秋の「赤い鳥小鳥」を知らない昭和ヒトケタ族はいないであろう。もちろんこの歌が、童話雑誌「赤い鳥」の題名になった。小説家であり広津和郎とともに戦後の松川事件の評論に関わった宇野浩二宇野千代の父)、小説「夜明け前」の作者・島崎藤村の童話「子供のため」、昭和三九年の没年まで文壇の大御所として存在感を示した佐藤春夫、明治の文豪・幸田露伴幸田文の父)の少年向けの対談形式の説話、永井荷風門下の久保田万太郎童話作家として名を残した小川未明秋田雨雀鈴木三重吉など、いやはや、よくもこれだけ集められたものだと嘆息するほかはない。明治生れの作者が、当時どんな日本語を操って童話を作っていったか、元治元年(一八六四)生れ、明治二九年(一八九六)没の翻訳家・若松賤子の「小公子」の冒頭の文章を以下引用してみる。
《セドリックには、誰も云うて聞かせる人が有りませんかッたから、何も知らないでゐたのでした。おとッさんは、イギリス人だッたと云ふこと丈(だけ)は、おッかさんに聞いて、知ってゐましたが、おとッさんが、おかくれになったのは、極く小さいうちの事でしたから、よく記憶(おぼ)へて居ませんで、たゞ大きな人で、眼が浅黄色で、頬髯が長くッて、時々肩に乗せて、座敷中を連れ廻されたことの面白さ丈(だけ)しか、瞭然(はっきり)とは、記憶(おぼ)へてゐませんかッた。》(カッコ内の読みは評者が挿入したが、もともとこの本には全部の漢字にルビが振ってある)
これが「言文一致」の文章を提唱した二葉亭四迷(元治元年・一八六四生、明治四二年・一九〇九没)と同時代の日本人の書いた日本語であった。平成十九年の現在のどちらかといえば投げやりで乱暴ないい放しの気味のある日本語からみれば、なんとしっとりとした丁寧な日本語であることか、料理でいえば、(支那料理の)油炒めと(日本料理の)煮びたしくらいの差がある。ちなみに、文中の少年主人公の名前「セドリック」は、戦後日産自動車が、長い間同社のフラッグシップであった高級乗用車の生産に乗り出した際に、車名「セドリック」として採用したものであった。
【ひとこと】
評者はまだ学齢に達しない前の幼少のころ、この本を父親の本棚で見つけて読み耽った。そのころ、当時夢中になっていた大相撲のラジオの実況放送を聞いて、翌朝配達される朝刊の取組表を読む必要上、漢字については力士名くらいは読めたと思うが、カタカナとひらがなは全部読めたので、この本のように、総ルビが振ってあれば、こどもにも読むことができた。あまりに熱心に読むので、それも当時の暗い裸電球の下とか、はなはだしきは便所の中で読んだので、小学校六年生のときには、教室の一番前の席でも、眼鏡を掛けなければ黒板の字が読めない近眼になった。暗い所で本を読んではいけない、と母親にしょっちゅう叱られたのも、いまとなっては、甘い懐かしい思い出である。でもいまのわずか二千字しかない常用漢字で育つ年代と違って、当時普通に使われていた漢字の数は優に万を数えただろうから、その読み方を総ルビによって読むことができ、従って難しい漢字も覚えていったのは、今の子供に比べて格段に幸運なことであった。その意味では、もう明治の典籍ですら読めなくなってしまった今の子供は可哀そうであり、また日本語がここまで衰退してしまったのも、漢字を制限したせいであろう。たまたまこの書評では「少年文学集」を取り上げているが、小学校のとき(当時は国民学校)、疎開先の農家を買い取った祖父の家の物置小屋で繰り返し繰り返し読み耽ったこの本や、ほかにもたとえば漱石の「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」など、円本と呼ばれた当時のこの種の全集本のことは、疎開先の農村の農家の外に降る雨の音と、物置というか納屋というか、建物内に積んであった藁の匂いや鶏の啼く声とともに、記憶から離れることがない、遠い少年の日の思い出である。家人には、死んだら棺のなかに、この本だけは入れてくれるように頼んである。
【それはさておき】
現在市販されている「漢和中辞典」には、約一万字の漢字が収録されてある。古今東西を通じて使われた漢字の総数が何万字あるか知るよしもないが、すくなくとも戦後の改革のなかで、使用する漢字の数をわずか二千字に限ったのは、賢明な策ではなかった。いまに見られる日常使われる語彙の減少や極端な省略語の氾濫による言葉の記号化、すなわち日本語の衰退を招いてしまったのである。過日訪れた地元の日系引退者ホームで、お年寄りのおばあさんたちは「先日取材に来た女性新聞記者が、“側室”ってなにかと私たちに聞いていたわよ」と言って笑い転げていた(側室とは、貴人たとえば大名などのめかけ)。またテレビのインタビューなどで、男性が配偶者を「妻(つま)」と呼ぶのも違和感を拭い得ない。あれは書き文字であって、話し言葉ではなかろう。もともと日本語は婉曲に表現するのがいいとされていて、書類の続柄の欄に「妻」と書くなら別のこと、相手に対してしゃべるときは「家内」とか「連れ合い」とか、もう少し軟らかい単語がいくらでもあったはずだ。またこれは戦前からあったことだが、文化人を気取る連中は、日本語があるのに日本語を遣わないで横文字に頼って自分の知識をひけらかすクセがある。いま普通に使われている日本語のなかの外来語すなわちカタカナ語の氾濫は、目に余るものがある。なんでもかんでも、英語の単語をカタカナに直して使えばそれでいい、というものではなかろう。「論語読まずの論語知らず」の問題もある。日本の教育から漢籍を排除したことは、前述の如く日本語を著しく痩せさせることに貢献した。こうしてこのままいくと、百年を出ずして、戦前以前の日本語は、学者しか読み解けないことになってしまうのではないか。その対策としては、現在ある常用漢字約二千字と、人名用漢字約一千字の計約三千字を、少なくとも常用漢字に関しては倍の四千字程度には増やすべきではないか。だいたい常用漢字人名用漢字が別の省庁によって管理されるというのは、悪名高い官庁の縄張り争いを現実に目の前に突き付けられるのが、論理的ではなし実用的でもなし、まことに不愉快千万な現象である。(常用漢字文部科学省所管、人名用漢字法務省所管)。その結果が、いまの小学生が「少年文学集」などの旧仮名遣いの本を読もうとしなくなった(というか、読もうとしても読めなくなった)最大の原因であり、結果として国語力が格段に落ちてしまって、いわば日本語にとって由々しい事態に立ち至ってしまった原因でもある。もはや日本語の確保を、文部科学省の役人に任せておける状態ではない。□