tokyokidの書評・論評・日記

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日記190811・緑十字機決死の飛行

日記190811・緑十字機決死の飛行

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 たいていの日本人は、敗戦記念日は八月十五日と思っている。例の玉音放送がこの日、正確には昭和二十(一九四五)年八月十五日に放送されたからだ。でも同じ質問を外国人にぶつけると、同年九月二日という答が返ってくる。この日東京湾に停泊したアメリカ海軍の戦艦ミズーリ号艦上で正式の降伏文書調印式が行われたからである。つまり外国人の常識としては、この日が正式に日本が連合国側に降伏した日なのであり、つまりこの日が正式に戦争が終結した日、となるわけだ。だから
92日までは、当時のソ連軍は戦闘を停止せず、遮二無二攻撃を続行して、日本から樺太、千島列島、北方四島などを奪い、占領してしまった。

 この間、815日から92日までの間、敗戦国日本と、戦勝国の連合軍との間で降伏文書の作成など、事務レベルの接触があったはずだが、その経緯が必ずしも明らかになっていなかった。

 事実はこの間日本の降伏軍使がマニラのマッカーサー司令部に呼び出されて詳細を詰めていたわけだが、その「詳細」が軍使の往復を含めて必ずしも明らかにされておらず、隔靴掻痒の感があった。実は降伏軍使を載せた旧軍の陸式一攻機が、帰途静岡県磐田市の鮫嶋海岸に不時着した事実を掘り起こした本が最近になって静岡新聞社から出版された。題名は表題のとおりで、岡部英一著。この本はウィキペディアによると「終戦直後、降伏条件についての会議を終えた軍使を乗せた緑十字機が、復路の途中で、予期せぬ不時着を遂げた。緑十字機は何故不時着したのか。マッカーサーの軍使派遣命令から任務完遂までの7日間を記す」とあり、降伏文書作成のために日本側の降伏軍使がどのような行動を取ったかがわかる。

 この本は令和の現在、ポッカリと穴が空いていた昭和のヒトコマを埋めた労作といえる。読者諸賢に一読をお薦めする。□

(写真はネットから借用)

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