tokyokidの書評・論評・日記

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日記181017・【臨時号】 八十路過ぎても

f:id:tokyokid:20181016140425j:plain八十過ぎても

日記181017・【臨時号】 八十路過ぎても

  本日からブログの方式が変りました。画面も変りましたから、読者諸賢におかれましても容易に認識なさったことと思います。ですが読者諸賢の操作はいままで通りです。読者諸賢の設定はなにも変える必要がありません。ご安心ください。ではいままでと同様によろしくお願いします。

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 人は八十路過ぎても、小学校低学年の学友の声を電話だけで識別できるものだろうか。結論から言うと、それが出来るのである。

 昭和十七年、小学校(当時は国民学校)に上ったとき、私は都内に住んでいて、ときどき近くに住む日本特有の食品の製造卸の若旦那に当る人と連れ立って電車通学をしていたものだ。小学校一年と二年のときのことであった。

 私どもにとって敗戦は小学校四年の夏休みのときのことであったから、このときは正に戦中で、私どもが昭和17年4月に小学校に通学を始めてまだひと月経たないうちに有名なドゥーリットルの東京初空襲にも見舞われた、そんな時期のことであった。私たちの通学路は当時の省線に乗って大井町駅からひと駅品川駅まで行き、品川駅前から当時の市電(都電になったのは昭和18年のこと)の7番・四谷見附行に乗り、途中の天現寺で降りる、というものであった。その往復を若旦那のY君と一緒に通ったのであった。

 その後戦火は二人の生活を引き裂き、Y君はつつがなく家業を継いで現在に至るのだが、私のほうはさんざんで、父親を召集で取られて戦死されて、疎開先を転々としたから小学校を8回も転校する破目になって、あとはバラバラになった。

 それが十年も前、昔の私の家の近所の中学同級生とあのあたりを散策した際、Y君の店にも立ち寄って挨拶をした。七十年ぶりのことであった。先週ふと思いついてY君の店に電話して、製品を注文したら宅急便で自宅宛てに送ってくれるかどうか訊いてみた。小さい時の味は忘れ難いのである。送ってくれる、というので当方の住所氏名などを伝えた。先方は若々しい声だったのでてっきり店の社員と思っていたら、要件が終って相手は「あなたは・・・君ではありませんか?」と問う。そうだと答えると「私はそうではないかと思っていましたよ」と八十ン歳で現役の社長を務めているY君の元気な若い声であった。先方は私の電話を偶然直接受けてくれて、それだけで、小学生のとき一緒に登校した相手だと一瞬で識別してくれたのであった。

 この日はそれが嬉しくて、一日中愉快に過ごした。人生も、長生きも、悪くないものだ。□

(イラストはネットから借用)

 

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五風十雨 すっきりうまい旧伊達藩江戸下屋敷製造の仙台味噌

 

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小学校入学第一日目 正面

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小学校入学第一日目 側面

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小学生でも小泉信三塾長の身分証明書をもらいました。