tokyokidの書評・論評・日記

tokyokid の書評・論評・日記などの記事を、主題に対する主観を明らかにしつつ、奥行きに富んだ内容のブログにしたい。

日記170421・平成の時代劇にみる敬語の使い方

tokyokid2017-04-21

日記170421・平成の時代劇にみる敬語の使い方
 年寄りはなんでも昔のものがよくて今のものは悪いと言う、と言われてしまうことを重々承知で書く。
 いったいにいまの映画やテレビドラマなどは「電気紙芝居」だと思っている。「電気」というのは本物の電気を使わなくては映らないからだし、「紙芝居」というのは、劇中の各シーンの登場人物が直立不動の姿勢でまったく動きがなく、セリフをしゃべるからである。昔の小津映画のロングショットのワンシーンなどは、もう薬にしたくても見られない。
 それも現代劇ならまだいい。いまの時代劇は、いったいあれはなんだ?
 時代考証がいい加減なのはかなり昔からそうだった。だけどねえテレビドラマ製作者諸君、時代劇で自分の主君を「信長さま」とか「家康さま」と呼ぶのはやめてほしい。君らは日本語を知らなさ過ぎるよ。自分より身分が高い者に対して敬語を使うのは常識だが、日本語の敬語にはルールがある。家来が主君に対して直接名前を呼ぶなんてありえない。とてつもない失礼に当たるからだ。たとえば織田信長を従者の森蘭丸が口にするときは「お屋形さま」とか「上様」とか呼んでいたに違いない。いつだか、前田利家の妻を主人公にした時代劇では、侍女が廊下で立ったまま信長に対して「信長さま」と呼んでいたのには恐れ入った。ものを知らないのにも程がある。部下や侍女が立ったまま主君に直答するなど沙汰の限り、ふつうは「おそばまで申し上げます」と断った上で、傍の取次役などを介して主君に言上したはずだ。このあたり山本周五郎の小説にはきちんと書き分けられていた。もうひとつ、皆さんは紫式部清少納言をご存知だろう。あの平安の時代にあって、貴人の名前を残すなんて、失礼も甚だしいから、「式部であるところの区別するために紫と呼ぶ」ことや「納言さまのところの清少のお姫さま」と呼んだから、本名は伝わっていないのでこうなった。
もっともこの間違いは、20年程前に亡くなった時代小説作家の池波正太郎も同じ間違いを犯していて、「鬼平犯科帳」の主人公・長谷川平蔵を、部下や町人の密偵が作品をとおして「長谷川さま」と呼ばせている。だからこの種の間違いは昭和、いや大正にも明治にもあったかも知れず、平成のいまだけ問題にするのは不公平というものかも知れない。でも正直な感想をいえば、黒澤明が死んだあと、まともな時代劇は作られなくなったと思う。
 戦時中旧陸軍でいちばんエラかった陸軍大将・東条英機が、書類に自署するに当たって「東条大将」と書いてみなの失笑を買ったことがあった。その人の職業上のタイトルを名前の後につけるのは一種の敬語であって、自分で自分に敬語をつける人はいない。東条英機はそんなことも知らなかったに違いない。
 この種の日本語の慣用について知りたければ、高島俊男センセイの「お言葉ですが・・・・・(文春文庫)」を読むといい。平成のいま、日本人一般が使っている日本語がいかに滑稽な代物であるかがわかる。□(大相撲の写真はネットから借用)