tokyokidの書評・論評・日記

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日記151105・US Cars 40&50, 1957 Models

tokyokid2015-11-05

くるま151105・US Cars 40&50, 1957 Models
 1957年型車は、アメリカ車が大転換を図った1955年型の改良を究極まで推し進めた年のくるまということができよう。これは三年ごとの大掛かりなモデルチェンジ・サイクルを始めたという意味でもあった。写真をご覧のとおり、1955年型をスマートにスマートにと改良している。目ざとい読者は、前回の1956年型車の写真を見て、尾ひれが大きくなり始めたことに気が付かれたかも知れない。ビュイッククライスラーの後部トランク蓋の両脇についている部分が、だいぶ目立つようになってきている。この傾向はこのあとぐっと強くなる。
 このころ、アメリカ車、といっても乗用車のことだが、のオートマチック・トランスミッションの普及率は目覚ましく、すでに過半数に達していたと思われる。いわゆるノー・クラッチ(またはオートマ)だ。当初は力の弱い女性ドライバー向きの特殊仕様であったものが、なんでも「楽なほうを選ぶ」アメリカ人の習性も手伝って、男性向けにもこのほうがいい、となったらしい。これはいま日本でバスの運転手がギヤチェンジの度にいちいちダブル・クラッチを切っている苦労を見ればわかる。カタログ上では、たしか1937(昭和12)年型のポンティアックに搭載されたのが市販の最初だったと思うが、これはオールズモビルであったかも知れない。いずれにしても GM がオートマ化の先陣を切った。日本でオートマが過半数を超えるのは、昭和40年代も後半になってからのことと記憶するから、これを1970年のことと仮定するなら、アメリカの1950年とくらべて優に20年以上の差があった。これを遅れと見るか敗戦国にしては健闘していると見るか、当時の日本の状況を知っている人ならば、おそらく後者の見方をする人が多いに違いない。
 軽薄短小が付加価値として認められる日本と違い、アメリカは「大きいことはいいことだ」の国だ。従ってくるまもどんどん大きくなった。高級車も中級車も大衆車もなべて大きくなった。ちょうどいま原油価格が一時の1バーレル百ドル以上から急落して半分の50ドル程度に落ち着いてきたら、このエコ環境のなかでも、アメ車だけはまた図体が大きくなっている現象と同じことだったと思う。
 この1957年、日本では昭和32年。なにがあったかというと・・・・・・・
1月/ 13日に美空ひばり浅草国際劇場で、ファンのA子・19歳に塩酸をかけられた。さっそく同26日にはこのマネをして、別れた女に塩酸をかけた38歳の男が逮捕された。日本人はマネが早いねえ。
3月/ 21日、博徒葬儀に現職の法務大臣中村梅吉が花輪を贈って問題となった。いまならみんなリコウになって、こんことはやらないよね。
5月/ 4日、出羽の海理事長(常の花)が切腹自殺を図って未遂に終わった。文部省が相撲協会のあり方に検討を加え、茶屋制度大きく変わることに悩んで。後任は時津風理事長(双葉山)。
7月/ 6日、東京都港区の私立芝中学の体育教師吉田弘29歳が、三年生の14歳にアッパーカットを食わせその上壁に頭をぶつけて殺害。昭和33年5月28日に東京地裁で懲役三年の実刑判決。人ひとり殺しても懲役は三年で済む軽い判決は、もう昭和32年に出現していた。
10月/ 4日、ソ連人工衛星フプートニク打ち上げに成功。
12月/ 4日、天城山ピストル心中事件。愛親覚羅慧生19歳と大久保武道19歳でふたりは学習院大学文学部の同級生。この年、無理心中を含めて、若い男女の心中事件が目立った。
・・・・・・・なおこの年亡くなった有名人は、有馬頼寧ハンフリー・ボガード牧野富太郎小林一三重光葵羽仁もと子、ジャン・シベリウスクリスチャン・ディオール徳富蘇峰など。あなたはこのうち何人をご記憶だろうか。競馬ファンならば、有馬記念有馬頼寧は忘れられない人だろう。旧久留米藩主・有馬頼方の長男で農相・中央競馬会会長だった人。出所はいずれも毎日新聞社・昭和史全記録とその「冥友録」。