tokyokidの書評・論評・日記

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日記151007・US Cars 40&50, 1949 Jeep

tokyokid2015-10-07

くるま151007・US Cars 40&50, 1949 Jeep
さるところから、US Cars 40&50 という写真集をいただいた。1940年代といえば、敗戦が1945(昭和20)年、戦後日本に進駐してきた米軍のくるまの全盛時代であった。戦前から戦後すぐのなつかしい写真のオンパレードであるので、当時の記憶を呼び起こしながら、コメントをつけていきたい。
 まず Jeep である。これは当時の米軍に、すでに1941(昭和16)年に実戦配備されていたという小型軍用四輪駆動車であった。いまから見ても、Jeep は当時の技術水準をはるかに抜いた汎用の軍用車であった。丈夫で部品点数が少ないから故障が少なく、故障しても修理が簡単でこわれにくく、ホイールベースが短いから回転半径が小さく、どこにでも入っていける機動性を持っていた。 Jeep は四輪駆動車であるから、山道でも舗装していない道でも、河中でも少しくらいの泥濘地でも、砂の上でも力強く走ることができた。戦後1967年に初めて渡米した筆者が、クリーブランドで同行のアメリカ人に「この工場では戦時中一日(ひと月ではない)に一万台のジープを組み立てていたんだ」と聞いたときは、日本はこういう国と戦争して勝つ戦略があったのだろうかと真剣に疑問に思った。当時はまだ新入社員に毛の生えたくらいの年齢だったが、世に情報なくして猪突猛進するほどバカなことはない、と遅まきながら気が付いた瞬間だった。でも爆撃機B-29 でも、デトロイトのフォードの工場でコンベアを使った流れ作業で組み立てていたアメリカのことであるから、ひとつの工場で日に一万台の Jeep を組み立てることくらい「お茶の子」であったのかも知れない。 Jeep は幾多の変遷を経ながら、七十年あまり後のいまでも、クライスラー社の一車種として後継車が販売されている事実からも、その優秀性を窺い知ることができる。
 なにしろ Jeep が実戦配備された1941年といえば日米開戦の年、翌年の1942(昭和17)年2月には日本はシンガポールを陥落させて、有名な山下・パーシバル会談で山下奉文司令官が敵将に「イエスかノーか」と迫った年だ。このとき話題になったのが日本陸軍の「銀輪部隊」。すなわちシンガポールを陥落させた日本軍は(自動車ではなく)自転車を使って移動してシンガポールを占領したのであった。なんたる彼我の差であることか。
 Jeep は登録商標である。でも日本では一般名詞としても使われる。この点鞄の「ボストン・バッグ」や軽飛行機の「セスナ」などと同じ類である。当該商品の世の中での普及に伴って、固有名詞が一般名詞に転用された好例だ。 Jeep といえばテレビの「コンバット」などが思い出される。後部座席を取り外した荷台に機関銃を据えて、砂漠を乗り回して敵を撃ちまくるシーンが印象的だった。戦後すぐのときは、米軍もまだ家族を帯同していなかったから Jeep 以外の普通乗用車は出回っておらず、東京中、いや日本中をこの Jeep だけが走り回っていた。その Jeep に乗った米軍兵士にたかって「ギブ・ミー・チョコレート」といってねだった当時の子供たちは、いま七十から八十歳代であろうか。写真は戦後すぐの型と似ているが、それぞれ何年製かはわからない軍用 Jeep をネットから借用。