tokyokidの書評・論評・日記

tokyokid の書評・論評・日記などの記事を、主題に対する主観を明らかにしつつ、奥行きに富んだ内容のブログにしたい。

日記130307・マンザナ強制収容所跡

マンザナ跡入口看板

 今回私たちは、ロスアンジェルスを出発して、時計回りに、パームデール、ランカスター、それからデス・バレー(死の谷)の入口の町ローン・パインまで一日で突っ切ってそこに一泊し、そこからさして遠くない戦時中日系アメリカ人を強制収容したマンザナ強制収容所跡にも行ってみた。さらにデス・バレーを横切ってラス・ベガスに向い、そこで数日過してからまたロスアンジェルスに帰ろうとしている。ちなみにデス・バレーはほとんど木の生えていない、岩山や砂漠ばかりの国立公園だが、日本の長野県とほぼ同じ面積だ。
 レンタカーがあるのだが、なにしろ長丁場だ。運転手は家内が務める。この人は現役のとき東京のさる外資系企業に勤めていたが、あるとき男三名と女一名(本人)でフロリダ州の本社に出張した。このときなんと、男は誰も現地で運転できる人がいなくて、彼女が最初から最後まで、週末に観光地のキー・ウエストにみんなを連れていくところまでやった。今度は私が視力の関係もあり、かつ末期高齢者になったことも考慮して運転免許証を更新しなかったので、やむなくこの長丁場の運転を彼女一人に任せざるを得なかった。もう若くはないのに、さぞや疲れたことと思う。
 マンザナ強制収容所のことを、英語でいまは「Manzanar War Relocation Center」という。写真にもあるが、いまでは「Manzanar National Historic Site」に指定されている。ちなみに強制収容所のことは「Concentration Camp」といい、現地でも戦時中はもちろん、戦後もしばらくはこの呼称を使っていた。でもどこの政府もやることは同じで、同じアメリカ人のうち日系人だけを差別して強制収容所に監禁したというのは印象がよくないということか、マイルドな「Relocation Center」という呼称をいまでは使っている。一種のペテンである。日本政府が「敗戦」を「終戦」と言い換えたのと同じだ。
 また写真を数枚入れておくが、どうせ当方の意図するようにはきちんと順序よく入らないだろうから、アットランダムで説明しておく。マンザナは夏暑く冬寒いところで、年中強い風が吹いている。後ろにそびえるのはシエラ・ネバダ山脈だ。ちょうどマンザナの後にあるのがホイットニー山で、4400メートルほどもある。場内の監視塔、キャンプ棟、消防車などは当時のものか、最近復元されたもの。消防車のうしろの白い大きな建物は最近できた管理棟で、ここでマンザナの歴史の映画などを見ることができる。当時猶予時間がたった24時間しかなく、農園や土地や家屋や財産をすべて処分するよう指示されて(これらはもちろんふたたび日系人の手に戻ることはなかった)、銃を持った民兵に囲まれて、手に持てるものだけを持つことを許されて、強制収容所に向って汽車に乗り込まされた日系アメリカ人の様子が写し出される。そのような非常時でも、暴動も喧嘩も起さず、粛々と強制所に向う日系人は、われわれ日本人が誇れるものである。