tokyokidの書評・論評・日記

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日記130115・男と女

tokyokid2013-01-15

 もう喜寿を祝ってもらう齢になって、本来なら人畜無害の身、世の栄枯盛衰とは関係のない孤高の生活を楽しんでいる境遇のはずだ。ところが人間ができていないと、この齢になっても煩悩の虫が騒ぎ出す。
 昔むかし中学生だった頃、野球友達に福沢君という2,3歳年上の友達がいた。本名は忘れてしまったが、私ども草野球仲間は彼を「ゆきっちゃん」と呼んで敬愛していた。もちろんこれは有名人の福沢諭吉先生由来の仇名で、彼自身は諭吉の親戚でもなんでもなかった。じつは記事に書いたことのある「巳は上に己れつちのと下につき、すでに已むのみ中程につく」の句は、この当時ゆきっちゃんから教わったもので、それからのち、いままでの生涯で彼のほかに誰もこの歌を私に教えてくれた者はいない。彼がつねづね私どもに言い聞かせたことは「性格がよくてもブスな女と、性格は悪くても美人の女性がいるとしたならば、将来の自分の嫁さんは、美人のほうにする。性格は変えられても、ブスは美人にならないからな」ということであった。当時中学生低学年であった私どもは一言の疑問をはさむことなく、つつしんで彼の主張を拝聴していたものである。蛇足をつけ加えれば、その後彼はジミだけれど人を逸らさず賢い女性を選んで結婚した。
 一方その後、といっても戦後まだ間もない昭和30年代半ばの時期に、一緒に仕事をすることになったオランダ系アメリカ人は、自分の生涯の伴侶を選ぶことについて「女は誰でも同じだよ」と言って憚らなかった。この人は最初の奥さんと死別して、私が知った当時は別の女性と結婚していた。彼ほどの長身でハンサムで、仕事のできる男の嫁としては、奥さんはあまり見栄えのしない、白人にしては小柄で目立たない、ただし性格のいい地味な女性だったから、話を仕向けて彼の結婚観を引き出したわけである。
 作家の池波正太郎は「我欲の強い女は幸せになれない」と言っている。「女は性格第一」と信じている私としては、これはまさに正鵠を射た観察なのだ。また一般的に言えば、生来の性格というものはなかなか変えられるものでなく、ブスか美人かは化粧である程度ごまかしが効く、ということだ。私のかつてメシのタネであった業界の用語では、商品の見栄えをよくすることを「化粧直し」と言っていた。英語なら「to make up a little」である。
 今にして思うことだが、女はミテクレではなく、性格が第一だ。生涯の伴侶にするにも、職場のアシスタントを雇うにしても、性格がいい女性に限る。そうでなければ時間のムダが限りなく続き、また当方にストレスが溜まっていい結果を残すことができない。ほかのことは、二の次、三の次だ。人畜無害のこの齢になって、つくづくそう思う。残酷なことに、美人もブスも齢をとれば同様に顔に年輪のシワが刻まれることは同じだ。一定の条件のもとでは、ゆきっちゃんは間違いで、オランダ系アメリカ人のほうがまだしも正しかった。ただし問題は、この「一定の条件」というのが人により場合により異なることで、数学の方程式のように確立した概念としては捉えられない、ということだ。