tokyokidの書評・論評・日記

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論評・羅府新報「磁針」コラム・「おミソ」【190715掲載原稿】

tokyokid2009-08-19

題名・「おミソ」
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 私ごとで恐縮だが、いま川柳に凝っている。先日の句会での席題が「癖」と聞いて、練習のためにさっそく自分でも作ってみた。たちどころに三句ほど頭に浮かんだが、この題を聞いたとたんに思い出した、自分が就学前のころ近所の子と遊んだときのことがあった。
 それは誰かがへまをやったときに、まわりの子が囃す「あーらよ、あらよ、××ちゃんはあらよ、○○ちゃんを泣ーかした」という歌とも囃しともつかない節回しであった。いまでは近所の子が何人か集って原っぱで遊ぶという場面も少なくなり、したがってこの種の歌?を聞くこともなくなって久しい。
 この年ごろの子が集って遊ぶときに、その子は初めて「社会のルール」をまわりの子から教わることになる。当時はたとえば学齢直前の子が、まだ右も左もわからない幼児の弟か妹を親から言いつかって子守をしながら原っぱでの遊びに参加する、という場面も少なくなかった。その幼児がまだ背にくくりつけられるほど小さければともかく、ある程度自分で歩き回ることのできる程度に成長していれば、たとえば「鬼ごっこ」をするときには当然自分も鬼ごっこに参加するとせがむのが普通である。するとその遊びのリーダーは、その幼児を「おミソ」としてゲームに参加することを許す。「おミソ」はゲームに参加することはするが義務も責任もなく、たとえば鬼ごっこでつかまっても鬼にならなくて済むのだ。それはその幼児が鬼という役を理解できないのに、都合上自分らの鬼ごっこゲームに参加させるための特別な役「味噌っかす」ということにして、みんなで遊ぶことを優先するのであった。こうして昔の子供は学齢前から人生のルールの一環として友達づきあいの仕方を自然に学んだものだった。
 冒頭の川柳の話題に戻って、私が「癖」という題をもらって「みよちゃんは無くて七癖鼻ほじり」という句を思い付いたとき、「あーらよ、あらよ」の歌も反射的に思い出すことになった。あのころは戦時中で、兵隊ごっこもしたみよちゃんやとーるくんとは離ればなれになって、その後会っていない。
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