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随筆・駐在員今は昔(その十三)【EWJ080901掲載原稿】

tokyokid2009-05-01


駐在員今は昔(その十三)

 戦後日本からアメリカに来た人たちといえば、留学生でなければ業務が目的であった。そのころの留学生は、いまは雨後の筍のようにどこにでもある語学学校などの話ではない。日米両国政府がみとめた、ひとにぎりのエリートのためのたとえばフルブライト留学生のことであった。エリートだからその数は少ない。一九六〇年代から日本企業の現地駐在員を勤め、定年退職後はアメリカに留まる道を選んだ元駐在員のN氏は、いまアメリカでみる日本人観光客や留学生の群れをみて、つくづく当時の少なかった日本人の時代を思うのである。
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 当時業務目的でアメリカに来ていた日本人は、最初は商社の人たちが圧倒的に多かった。つまり彼らは貿易業者としてアメリカに来ていたのである。それがだんだんとメーカーつまり製造業者の社員もアメリカに来るようになった。一九六〇年代までは、彼らメーカー社員の訪米目的はたいてい市場調査ということであったが、一九七〇年代からあとは、俄然日本企業の在アメリカの現地法人を設立する動きが強まって、この時期には既にアメリカ国内に橋頭堡を築き終っていた大企業に続いて中小企業もぞくぞくとアメリカ入りを果たした。N氏はこの時期にまず市場調査のためにアメリカに派遣され、引き続いて設立された現地法人の長としてそのままアメリカ勤務を続けた人だが、平成20年の現在では、N氏の世代が続々と停年を迎え、N氏のようにアメリカに住み続ける選択肢を選んだ人が多い。戦後の日本人の「知米派」といえる人たちである。
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 その一九六〇年代のころ、日米間には既に「貿易摩擦」なるものがあって、有名な事件としては「日米繊維交渉」が挙げられる。日米繊維協定そのものは、一九七二(昭和47)年一月に調印されている。戦後三〇年足らずで、一面焼け野原、なにもないところから出発した日本の工業力は、限られた分野だけとはいえ、アメリカの工業力を脅かすまでの存在に成り上がったのだった。このあたりから、日本の経済高度成長が始まるのである。
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 当時の貿易交渉でアメリカ側がよく使った用語に「非関税障壁」というのがある。これはモノやサービスの輸出入の際輸入国で「関税率表」によってかかる「関税以外の」輸入障壁というものであった。この件に関するアメリカ側の要望が新聞記事として掲載されて、N氏はそれを読むわけだが、なかには「日本の運送業で40フィートのトレーラーを使わないのは、アメリカの製品を輸入しないための非関税障壁だ」というものもあった。江戸っ子のN氏はこの記事を読んで、いちどアメリカから老練なトラック・ドライバーを東京の下町に連れてきて、40フィートのコンテナ・トレーラーを零細企業の工場の入口まで着けられるものかどうか試してみるべきだ、と思ったことがあった。もうひとつ、アメリカは他国の非関税障壁を唱える割には自国の非関税障壁には無関心で、アメリカは正式に批准したはずの「メートル法」を21世紀の今日に至ってもいまだに実行せず、ポンド・ヤード法のままだ。これは不公平なことではないかと、元貿易担当のN氏はいまでもそう思うことがある。□