tokyokidの書評・論評・日記

tokyokid の書評・論評・日記などの記事を、主題に対する主観を明らかにしつつ、奥行きに富んだ内容のブログにしたい。

随筆・駐在員今は昔(その九)【EWJ080301掲載原稿】

tokyokid2009-04-01

駐在員今は昔(その九)

 いまどきは、日本とアメリカに技術上の格差はない、と思っている人が多いのかも知れない。軍事技術を除いては、あるいはそうなのかも知れない。でもある意味では「わずか」62年前、全国が焼け野原になって、なにもなくなって敗戦に打ちのめされた日本が、ここまでくるのには「大した変化」があった。以下は、技術でアメリカに追い付き、ある意味では追い越した場面もある日本企業の駐在員がみた、アメリカの報告である。
*  *  *
 日本企業に勤務するJ氏が初めてアメリカにきたのは昭和42年(一九六七)のことであった。このとき会社から自社製品をアメリカに売り込むための「市場調査」を命じられたJ氏が、世界最大の自動車メーカーであったゼネラル・モーターズ社(以下GM)の、ミシガン州ウォーレンにあるテクニカル・センターを訪問したのは、一九六七年末のことであった。この研究所は、当時のGMの研究開発部門を集約して一九五五年に開所したところで、J氏が訪問したのは、開所十二年のち、ということになる。このときのJ氏の印象は「でかい、すごい、先進技術」というものであったが、とりわけ仰天したのは、案内してくれた技術者の「試作レベルの1個作業でよければ、原子爆弾でも作れる」という説明であった。いくら世界最大の自動車メーカーであっても、一企業が原爆を作れるなんて、とJ氏はそれこそ「ぶったまげた」のであった。当時GMは世界最大の自動車メーカーであっただけではなく、世界最大の企業でもあったのだが、広島・長崎で原爆の威力を心底刻み付けられた日本人のJ氏には、深く印象に残った出来事であった。
*  *  *
 星霜移って一九八三年、J氏は市場調査から脱皮して、日本企業のアメリ現地法人の長としてアメリカに居た。GMのテクセン訪問から十六年のちのことである。この年J氏は、アメリカのビッグスリーといわれる自動車会社3社のうち1社の南部にある、自動車に取り付けるラジオなどの組み立て工場を見学した。長い製造ラインには作業員がずらりと並んで仕事をしていたが、うす汚れた床には組み立てに使う部品があちこちに落ちていた。その気で工場の中を見回すと、冶具や材料が雑然と床に置かれ、人の動きにもムダが多く、ピカピカの床の明るいラインで働く、組み立て部品が床に落ちているなど考えられない日本の工場を知悉したJ氏の目には「これが工場か」と半ば信じられない思いがしたのも事実だ。間もなくこの会社は、アメリカ議会に援助を要請し、その結果一時の苦境を脱することになるのだが、そのときの社長は長いこと日本の自動車会社の不公正さを声高になじって有名な人だった。
*  *  *
 いまは平成二十年(二〇〇八)、アメリカのビッグスリーの市場シェアは50%近辺を上下し、日本車を中心とした輸入車アメリカ市場を席巻する状態となった。これは戦後すぐ、マッカーサー元帥の総司令部・GHQ(第一生命本社ビル)と堀をはさんだ皇居の広場で、前もうしろも同じような世界トップモードであった最新型のアメリカ車、たとえば一九四九年型のスチュードベーカーを覚えているJ氏には、当時想像もできなかった大変化なのである。□
【蛇足・そのビッグスリーは2009年3月のいまそろって存亡の危機にある。上述のGMは政府からの補助金と引き換えに会長のクビが飛び、六十日間のつなぎ融資を受ける代りにもっと厳しい現実味のある再建計画を提出しろと迫られて、会社更生法の適用も視野に入れて生き残りの方策を探るのに必死だ。「わずか」四十二年前に、技術研究所で原爆でも作れる、と豪語した当時世界最大の自動車メーカーであったGMが、である。まことに今昔の感に堪えない。】
【EWJ はハワイ州で発行の情報誌 East West Jounal のこと】