tokyokidの書評・論評・日記

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随筆・駐在員今は昔(その六)【EWJ071201掲載原稿】

tokyokid2009-03-09

駐在員今は昔(その六)

 いまでは日本とアメリカが過去に戦争をしたことを知らない世代が育っているそうだ。「それでどっちが勝ったの?」と訊かれても、戦後の焼け野原を知っている世代には、返事のしようもない。昭和二十年(一九四五)三月十日の東京大空襲、戦後の上野地下街の浮浪児、ひときれのパンのためには泥棒も売春もアリだった。街を走る米軍のジープと、乗っているGIに「ギブ・ミー・キャンディ」と群がる食べ物のない当時の日本の子どもたち。でもその風景は日本人だけでなく、当時日本に進駐していたアメリカ兵の心の中にも記憶が残っている。星霜移り人変り、日本はいまやアメリカに次ぐ経済大国に成り上がった。それを象徴する話を以下紹介する。
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 日本の本社の大切な取引先の息子、すなわち該社の未来の社長さんが、一年間の予定で、研修のためにニュー・ヨークに送られてきた。初日にケネディ空港に出迎えにいき、マンハッタンにあるホテルに送り届けると「キミ、これから使うくるまを買いたいのでキャデラックの販売店に連れて行ってくれ」といわれ、近所のディーラーに案内した。時刻は午後五時を過ぎていたので、従業員はもう閉店の準備にとりかかっていたが、セールスマンがひとり出てきて、くるまを見せてもいいと案内してくれた。といっても、とくに説明するわけでもなかったが、未来の社長さんは「いちばん高いキャデラックはどれ?」と訊き、くるまを見せられると「よし、これに決めた」と発言、セールスマンは「わかりました。それではこのくるまは予約済みということで取っておきますから、明日チェックを用意して再度ご来店ください」、「いや、いま現金で払う」と持参のアタッシェ・ケースから現金を取り出した。セールスマンはびっくり仰天、事務所の奥から上司を連れてきて、それからコーヒーのサービスとなった。書類に必要な事項を彼が書いている間に、セールスマンが私に話しかけてきた。「彼は何歳ですか。日本人の年齢はよく分りませんが、まだ若い人のようですね。私は以前日本の横須賀にいたことがあります。海軍でした。あのミズリー号で、日本の重光代表が降伏文書にサインしたのを、皆と甲板に並んで見ていました。あれから日本には行っていませんが、日本も変ったでしょうね」と、しみじみと、なにか物思いにふけるように言われたことがあった。敗戦直後に日本にいたことのあるアメリカ人からみると、その日の閉店寸前に飛び込んできた若い日本人が、高級車のキャデラックのいちばん高いモデルを、それもキャッシュでポンと買うさまをどんな気持で見ていたのか、考えさせられるものがあった。当時はまだ英語のできなかった未来の社長さんにはわれわれの会話がわからず「では明日の夕方までに乗れるようにしておいてよ」とゴキゲンでホテルに引き揚げていった。
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 歴史はそのままの形で繰り返すものではないにせよ、世の中に歴史から学ぶものはいくらでもある。資本主義の世の中では、たしかに「カネ」がモノを言う場面が多かろう。それでも、人の世を動かすのは人の心なのだ。一九六七年に東京オリンピックが終って、一九七〇年の大阪万博が開かれる直前の頃の、実際にあった話である。□
【EWJはハワイ州で発行の情報誌 East West Journal のこと】