tokyokidの書評・論評・日記

tokyokid の書評・論評・日記などの記事を、主題に対する主観を明らかにしつつ、奥行きに富んだ内容のブログにしたい。

論評・磁針コラム・本末転倒

tokyokid2008-08-26

論評・本末転倒【羅府新報080814付・「磁針」コラム掲載原稿】

【前口上】
 羅府新報は、米国ロスアンジェルス市で発行される、海外最大の日英バイリンガル日刊新聞であり、100年以上の歴史を持つ。日本語版の1面に当る頁に「磁針」という800字のコラムがあり、ほぼ毎日掲載されている。社説のないこの新聞にとっては、唯一このコラムが執筆者の主義主張を表現する場になっている。この欄の執筆者は、羅府新報社内の記者と並んで社外の人も含め約20人が担当する。だから各人の書く記事は、ひと月に約一回の割合で輪番に掲載される。筆者も1996年以来執筆陣の一員であり、以下の原稿は2008年8月14日付で掲載された。

【原稿本文】
*   *   *   *   *
 ついに、というべきか、義務教育の授業で「しつけ」を取り入れる自治体がでてきた。朝日新聞国際版・7月13日付けが報じたもので、記事によると、全国でも例のない取組として、群馬県伊勢崎市教育委員会が、市立の全小・中学校で実施を決めたそうだ。内容は「きれいな学校作りの時間」で、整理・整頓・清掃・清潔・しつけの「5S」を身につけることを目指すという。
 この記事は、私どもを考え込ませる。本来「しつけ」は家庭の仕事で、学校は「教育」する場ではなかったか。しつけまでも学校で教えなければならないとすると、生徒の人間形成はそのぶん遅れる。遅れるだけならまだしも、大人になっても人格形成が至らない場合もでてくるだろう。いま日本の家庭ではなにが起こっているのだろうか。家庭では人間生活を営むのに最低限必要な、子供をしつける作業すらもはや放棄してしまったのだろうか。
 私どもが子供のときは、しつけに背いたときはもちろん、他人に迷惑がかかる行為をしたり自他ともに危険な行為をしたときは、親は真剣に子供を叱った。それでも繰り返し同じ過ちを犯す子供には、体罰をふるうことも珍しくはなかった。こうして私どもは、子供のときから「していいことと悪いこと」の区別を覚え、公共の場所でゴミを捨てない、ケンカをしない、ものの後始末をする、周りの自分より小さい子供が危険に会わないよう気をつける、などと半ばむりやり学ばされてきた。記事のように、学校でしつけまで教えるとなると、肝腎の学業の時間数は当然そのぶん減るだろう。さらに当然の結果として成績は落ちるものと覚悟しなくてはならないが、そのことを親は認識しているのだろうか。学校に「しつけも学業も」要求すれば、いわゆる「無理が通れば道理が引っ込む」結果になるだろう。
 戦後民主主義が進んで、家庭内暴力が否定されるようになった。それはそれでいいことではあろうが、その結果家庭でしつけができなくなったとしたら、昔体罰を課しても子供にしつけを徹底していた頃とくらべて、その後の日本の社会はいったい進歩したのか退歩したのか、首を傾げざるをえない。□
*   *   *   *   *