tokyokidの書評・論評・日記

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書評・元禄江戸図

tokyokid2008-05-22

書評・古地図・元禄江戸図(元禄六年・通油町佐藤四郎兵衛版本)古地図資料出版株式会社復刻

【あらすじ】
 元禄六年といえば西暦では一六九三年、第五代将軍・徳川綱吉の時代であり、当時の有名人といえば松尾芭蕉、河村瑞軒、井原西鶴竹本義太夫などであった。この時代はまた「元禄文化」の時代として知られる。二六〇年余にわたって平和が続いた江戸時代においても、屈指の高い文化が元禄文化であり、それを庶民に至るまでが謳歌できた時代でもあった。当時の江戸は、世界でも一,二を争う大都市であったといわれる。その江戸を、浮世絵ばりとまではいかなくても、豊富な色版を使って、タテ88センチ、ヨコ96センチの紙いっぱいに描き出したのがこの江戸地図なのであり、本評の底本にしたのはこの地図を復刻・印刷したものなのである。言うまでもなく、原版は「木版刷り」であったはずだが、この復刻版は「印刷」である。
【読みどころ】
 当時の一枚地図の特徴は、大きな紙一枚の地図を東西南北の四方から何人で覗き込んでも地名等が読みやすいように、道路に沿ってそれぞれの方向に向って文字が書き下ろされていることである。現代の地図は、北が上、と決まっているが、それは人間の文明が北半球から発生したものである以上、当然のことであろう。ただ日本人は、個別の技術というか職人技では、世界のどの人種と比較してもいささかもひけを取らないものを過去に於いて持ってきたし、現在でも日本の製造業の強みをみても、その伝統はりっぱに伝承されていると思うのだが、肝腎のものごとをシステム化することは、あまり上手ではない。その点においては、身分の上下関係がはっきりし、上が下を導くという社会制度が古くから確立されてきた西欧諸国(米国も含めて)の白人指導者層に「システム化」の遺伝子がはっきりと受け継がれているように思える。読者諸子に置かれても、それぞれの分野で思い当たるふしが多々あろう。話はまた江戸地図に戻るが、当時の支配階級であった武家のうちでも、大名の上屋敷は特別扱いで、寺社と同様に別枠で一覧表まで付いているが、そこには(その大名の)中屋敷下屋敷も行程とともに記してある。行程といえば「日本橋ヨリ所エ行程」と一覧表が付されていて、例えば「品川エ二リ(品川へ二里)」とか「箕輪エ一リ(三ノ輪へ一里)」などと書いてある。当時の街道は限られていたものと見え、このほかここに出てくるおおよその地名は「板橋」「高井戸」「千手(千住)」「上野」「浅草観音」「葛西」「小松川」「池上」「目黒」「目白」「富士」「王子」「本江追分(本郷追分)」「四谷追分」「源川」「鉄砲洲」などであるが、当時の江戸住民は、これで江戸から四方に散るにあたって、目標に事欠かなかったのであろう。面白いのは、たとえば高輪の薩摩屋敷「松平薩摩守」の上屋敷のところに「カゴシマ四百十一リ」と、領地までの距離も示してあることだ。この伝で「保科肥後守」は「奥州アイヅ六十五リ」であり、現在の東京大学の所在地である「松平加賀」は「加州金沢百五十リ」であり、ここには「梅鉢」の紋とともに「百二万二千七百石」と書き入れられてあり、これらの「加賀前田候」のあれこれに関することも、この江戸地図一枚から知られるのである。当時の江戸地図は、単なる地図に留まらず、諸国諸侯やその領地などの情報を示す簡単な百科事典であった事情が窺える。
【ひとこと】
 ところで最近のテレビ時代劇などでは、時代考証がいい加減になった。ひどい事例に至っては、屋敷の門構えに「南町奉行所」とか「松平」などの看板や表札がかかっているものを見かけることがあるが、江戸時代には武家屋敷に表札を掲げることはなかった。表札が用いられるようになったのは、明治維新以後である。江戸時代は、たとえ子守の小女であっても、近所にある「なになに殿」と呼ばれるほどの大名の屋敷は、(表札などなくても)皆知っていたのである。それで日常生活に事欠かなかったのだ。その知識の基は、当時あちこちの版元から発行されていたこのような「江戸の地図」であった。だからこうした時代考証がなっていない「時代劇」の失策は、江戸時代に多少なりとも関心がある者にとっては噴飯ものである。この点で業界人も認めるところの、本格的に時代考証がなされた時代劇映画の代表例は、日米開戦の昭和十六年(一九四一)に公開された「元禄忠臣蔵」、原作・真山青果、監督・溝口健二、主演・河原崎長十郎中村翫右衛門の松竹映画であろう。これは当然当時のモノクロ長編映画であるが、かつて前後編に分かれて「松竹ホームビデオ」からビデオが発売されていた。
【それはさておき】
 江戸も中後期になると「切絵図」が一般化してくる。広辞苑によると「切絵図」とは「全図の一部分を示した絵図」ということであり、いまの「区分図」である。地図が一般庶民にも普及してくるに従って、携帯の便や人中で拡げる便などをも考えて、地域を区切って簡単に見られるように、そのような小ぶりな地図が出現したものであろう。「江戸切絵図散歩(新潮文庫)」の著作がある時代小説作家・池波正太郎は、その冒頭部分を「江戸時代、それも徳川幕府の政権が安定し、独自の文化が生まれ、成熟するにつれ、つぎつぎに発行された「地図」の美しさは、いくら見ても見飽きることがない」と切り出す。当時江戸の職人芸のひとつの極地であった「木版刷り」の「地図」を、たとえ複製とはいえ、いまでも好きなときに拡げて見入ることのできる日本人の私たちは幸せ者なのだ。□