tokyokidの書評・論評・日記

tokyokid の書評・論評・日記などの記事を、主題に対する主観を明らかにしつつ、奥行きに富んだ内容のブログにしたい。

日記200601・入院見聞録

日記200601・入院見聞録

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 万病?併発の折りとて「いちどデータを取っておきましょう」ということになり、五日間ほど検査入院してきた。朝夕血圧や体温を測るのはもちろん、いまどきは24時間心電図というのもあって、医者殿は縦横無尽にデータを取っていらした。もっとも実際に撮るのは看護婦殿であった。四人詰めの大部屋であったので、私を含めて同室者の人間模様を観察することができた。印象に残ったものをいくつか書き記してみる。

 

1)「・・・・・してもらってもいいですか?」

ここでもこの言葉の洪水だった。たとえば看護婦が患者に向って「腕の絆創膏を自分で取ってもらっていいですか?」と言ったとする。言った本人はそう言ったことによって自分は患者に「腕の絆創膏を取って下さい」と指示したつもりらしいが、聞いた当方は単純に「腕の絆創膏を取ってもいいですか?」と質問されたものと解釈して「もちろんいいですよ」と答えてそのまま待っていると何も起こらない、という仕掛だ。当方にしてみれば依頼または命令されていないことを当方がやるわけないよね。肝腎のするべきことをきちんと言葉にしていない、というこの言い回しはどこから来たんだろう。いったいぜんたいいまどきの日本語はどうなっているのだろう。

 

2)「ナースコール」

四人のうち二人は重症と見えて、ないしはそのフリをしているだけと見えて、なにかというとすぐナースコールを押していた。用件は尿瓶やおむつの後始末から見えなくなったメガネの捜索までさまざまであったが、問題は相手の都合かまわずナースコールのボタンを押すものだから、担当者がなかなか来ない。するとこの二人は、家族がきて話しているときの言葉の調子とまったく違う調子で声を張り上げたりモノをぶつけて音を出したりしてナースを呼ぶのである。その声がなんとも哀れでいまにも死にそうな甘い甘い猫なで声の大声を出して呼ぶ。男でもあんな声が出せるのかよ、という種類の声である。あれでは家長の尊厳などどうやって保てるものか。みずから家庭内の自分の地位を貶めているようなものだ。家に帰ったら英和辞書で dignity という語を引いてみな。日本の男の価値も下がったものだ。

 

3)「女は男に抱きつくものじゃない」

途中から入ってきた隣の爺様は、小学校高学年くらいの女の孫が見舞いにきてよろこんで「おじいちゃん・・・・・」といって布団の上から抱き付いたらしい。そしたらこともあろうにその爺様は女の子に向って「女は男に抱き付くものじゃない」と大声で叱っていた。その子は気丈な子で泣きはしなかったが、無言で自分のじいちゃんから離れたようだ。言った爺様は「男はオオカミだから女は無暗に男に抱き付いたりするな」の意味だろうが、子供にはそうと説明しなければわからない場合だってある。それに自分の子どもや孫を性欲の対象として見る爺様がそうそう居るとも思えない。厳格も時によりけり、いまは肉親の情愛も性欲の発露としてしか教えられない世の中になったのかなあ。

 

 以上三題、当方の認識不足を暴露しただけのお粗末でした。□(写真はネットから借用)

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日記200521・大観先生

日記200521・大観先生

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 横山大観といえば日本人なら誰も知らない人はいない日本画家の大家中の大家なのだが、じつは戦前、私は父に連れられてこの大観先生のご自宅に伺って先生に直接お目にかかったことがある。多分昭和161941)年のちょうどいまごろの季節のことで、私は満五歳だったはずだ。

 父の用件は仕事上(海上火災保険業)のことであったようで、私は父に言われたとおり先生にご挨拶申し上げた以外に会話をした覚えはない。上野・池之端のご自宅で、いまは大観記念館になっているはずの純和風のお宅だったことを覚えている。もう一つ、通された部屋が一枚目の写真の部屋だったと見えて、下半分ガラスの障子だったことがかすかに記憶に残っている。でも写真のような先生の笑顔は一切記憶になく、むしろ最後の写真のような真面目な顔しか覚えていないから、ま、わたしの父の用件のないようからすれば当然であったろう。

 もちろんその時は大観先生のことなど知る由もなく、ただ「絵描きの偉い先生」と聞かされていたに過ぎなかったと思う。それからかれこれ八十年経つが、この経験は私の学齢前の大切な記憶として、父亡き今となっては、私の胸だけに大切に仕舞われている先生と父と一緒の、かけがえのないセピア色の記憶になっている。□

(写真はネットから借用)

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日記200511・うまい菓子パンはもうない

日記200511・うまい菓子パンはもうない

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 結論から言おう。令和の今、世の中にうまい菓子パンはもうない。丹念に探せばあるのかも知れないが、ま、通り一遍のことでは見付からない。これは戦後すぐ存在し

た、当時のうまい菓子パンへの挽歌である。

 最初にコッペパン、と言うと「コッペパンは菓子パンではないよ」という声が聞こえてきそうな気がする。ま、そう言わないで、大事な脇役のひとつとして聞いてほしい。コッペパンの語源は知らない。語感からして多分ドイツ語系なのであろうか。それともなにかの略語なのかな。ご存じの向きは教えてほしい。で、真っ白なふっくらと焼きあがったコッペパンは、何を塗ってもうまいのである。ただしいまはどんな食材でもいくらでも手に入るから、小麦粉にたっぷりとマーガリンを塗り込んでベチャベチャと焼いたコッペパンにさらに植物の油のにおいのするマーガリンとジャムを塗ったコッペ・ジャムパンが最低なのである。あとは野菜とマヨとか、単純にポテトサラダをはさんだだけのコッペパンサンドイッチもうまい。でもそれ土台となるパンがうまければの話で、ケーキのような甘い食パンがサンドイッチに使われた日にはおしまいである。この辺がわかっていない日本人は案外多い。パンにも種類はいくらでもあるんだよ。こんがりと焼き上がった昔のうまいパンはどこに行ったのだろうか。

 あとはジャムパン、クリームパン、チョココロネ、メロンパンなど、今出来の菓子パンは軒並み例の「モチモチ」と称するベチャベチャの生焼けパンに変ってしまった。割れば生地が糸を引きそうな、こんな菓子パンを誰が喰いたいものか。

 味の調子はずれもいい加減にしてくれよ。□

(写真はネットから借用)

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日記200501・チッカッキュッ

日記200501・チッカッキュッ

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 昔は日本にも方言が豊富にあった。典型的なのは、東京・上野駅にいけば東北弁や北海道弁がいくらでも聞けたし、東京駅では大声で話し合う薩摩弁を聴くことができた。それがどこに行っても平板な「エセ標準語」に日本全国ローラーをかけた如く統一されてしまったのは、戦後4,5年経った昭和251950)年ごろ、世に「街頭テレビ」なるものが普及し始めてからではなかったか。

 私が現代のテレビで使われる日本語(口語)を「エセ」と断じるのには根拠がある。こんな口語の日本語は、それまでどこでも使われていなかったからだ。一例を挙げれば、語尾をなんでも「ですます調」にする口語なんてなかったのだ。それまでの口語というのは、もっと闊達なものだったのだ。言い方を変えればもっと親しみを込めた血の通ったものだったのだ。それがいまは、噴飯ものなのは、市販されているDVDを見るとわかる。男女が「入れさせてもらっていいですか」「はい、でも痛くしないで下さい」なんて「ですます調の文語体」でやっているよ。これが房事行為中の男女の会話かよ。噴飯物の日本語でなくて、なんだというのだ。だがこれで戦後の日本語の変遷がわかる。

 戦時中、昭和181943)年夏から戦後の昭和211946)年2月まで、私が疎開した埼玉の奥の田舎では、地理的にはもう群馬が隣村だったようなところだったが、そこでは子供達がジャンケンポンのことを「チッカッキュッ」と掛け声をかけていた。当時勿論東京では「ジャンケンポン」であった。私は小学校低学年のこどもだったから、すぐ溶け込んで皆と遊んだ。戦後小学校5年生のときに帰京したときも、私の埼玉弁はわずか二週間で完全にもとの東京弁に戻った。そのころ「エセ標準語」はなかった。これは近くても遠くても、どこでも方言があった時代の話である。いまはこの地方のこどもらでも「チッカッキュッ」とは言わず、東京と同じ「ジャンケンポン」になってしまっているそうな。読者諸賢の出身地ではどうですか。□

(写真はネットから借用)

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日記200421・如月の望月の頃

日記200421・如月の望月の頃

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 桜花の頃になると思いだす和歌がひとつあるがその話は後にして・・・・・・・

 如月は二月のこと、望月は満月のことである。今から半月前、桜花は満開であった。旧暦の如月がそれにあたるのかどうか私は知らない。その後雨が降ったりして今では桜花は半分も残っていない。

 今から九百年ほど前の西行法師は「願はくば花の下にて我れ死なむそは如月の望月の頃」と詠んだ。このうたほど日本人の誰でもが願う死にざまを詠み込んだ和歌は他にあるまい。私も「願はくば・・・・・」のクチなのだ。

 こよなく花が好きだった私の母は、四十年ほど前にこの和歌の通りに世を去った。母の月命日は四月十七日。その年は桜もまだ半分ほど残っていた。花好きの母としては本望だったろう。□

(写真はネットから借用)

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日記200411・キミは羽釜でメシが炊けるか

日記200411・キミは羽釜でメシが炊けるか

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 皆さんは信じないかも知れないが、戦後間もなく民生用として家庭用電気炊飯器が出回るまでは、ご飯は羽釜で炊くものであった。どこでもそうだった。羽釜はご覧のとおり鉄製の釜だけであるから、中に入れた米に水を足して加熱しなければメシにはならない。加熱する力は羽釜には備わっていないから、ふつうは上記のとおり米と水を仕掛けた羽釜を竈や焜炉の上に置いて、下から加熱しなければならなかった。燃料は主として薪と呼ばれる木材や廃材を適当な長さに切って使った。焜炉の場合は練炭や豆炭を使った。

 羽釜でメシを炊くとすれば、火加減がむずかしい。まず上記の薪に火をつけるのもある程度の熟練を要する。火がついたとしても、そのあとメシを炊くための薪の燃え加減の調節がむずかしい。ほんとうは一回に炊く水の割合や炊き加減からしてなかなか一筋縄ではいかないのが普通であった。

ま、このやり方のひととおりを書いてみようか。

▼羽釜の内側をきれいにする。戦時中は亀の子タワシなど売っていなかったから、麦わらを丸めて使っていた。前回炊いたメシの残滓を水で洗い流すわけだ▼米を計っていれる。ふつううちでは兄弟が多いので毎回一升炊いていた▼米を磨ぐ。いまでは磨ぎ方を知らない人も増えている。そこで拙作の川柳・洗剤で米磨ぐ嫁の親の顔・・・となるわけだ▼あまり洗い過ぎて糠を落し過ぎてしまうと栄養価が落ちるというのでそこは適当に留めておく▼水を適量入れる。この量が難しかった。水加減でメシの固さが決まる。私は母に教わって、手首のシャツをまくって腕を直角に水に入れて踝の上まで、ときめていた。慣れるとうまくいくものだ▼蓋をしてかまどに火を付ける。紙や松の落ち葉など、燃えやすいものをいちばん下に敷いて上に薪の細かいものから順に積み上げてマッチで火を付ける。このときかまどの周りに薪や燃しつける材料などが戦乱していると火事になるので必ず周りを掃除しておくことが必須▼かまどが吹いて蓋の下からぶくぶくと泡が出るとほんのちょっと蓋をずらして泡が出なくなるまで待ってまた完全に蓋をして、短い時間薪を燃し続ける。5分から10分くらい▼炊きあがったと思ったら、薪を燃え尽きさせてあとは余熱で炊きあがるまで待つ。これはメシをふっくらと炊くための大切な儀式で、これを炊きあがってすぐ食べたりするとぺちゃんこのメシでまだまずい、これを「ふかす」と称した▼要するに全体を通していえば「始めチョロチョロ中バッパ、赤子泣いても蓋取るな」ということになる。

 これを小学校3年から5年のとき東京に帰って来るまでの2年間母のいいつけで毎日メシを羽釜で炊いていた。だから私はいまでも羽釜でうまいメシを炊けるぞ。□

(写真はネットから借用)

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日記200401・ベランダの金魚が増えすぎた

日記200401・ベランダの金魚が増えすぎた

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 昨年の夏以来、金魚とメダカをベランダで飼い始めた。別々の水槽に入れて飼っている。うちのマンションはペット禁止なのだが、金魚と小鳥ならいい、という規則になっている。小鳥は雀クラスの大きさまでとのことだ。オウムを飼おうとした人は規則上ダメと言われて涙を呑んだ。ウチが飼った金魚とメダカは増えに増えて困ってしまって、その結果猫にも食べさせる始末だ。余分の金魚とメダカはエサ用として一部金魚屋に引き取ってもらっているが焼け石に水だ。

 マンションのベランダに水槽を並べて飼っているのだが、世話さえよく焼いてやればいくらでも増える。相手が金魚やメダカだから蚊が発生することはない。ボウフラのうちに魚が食べてしまうからだ。市販のエサは少な目にして、ボウフラを食わせる。水槽には適当に水草を入れて、景観はいい。だがとにかく数が増えすぎた。やろうと思えば夜店で金魚すくいの店ぐらい開業できるだろう。で、猫に食わせる始末である。

 こんなことなら東京・江戸川区の大島など金魚の産地の近くに住めばよかった。誰か金魚とメダカを貰ってくれないか。四月一日記□

(写真はネットから借用・写真は下記の私のブログを開いて見てください)

https://tokyokid.hatenablog.com/

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